晴れやかに透き通る青が一面に広がっている。大きな入道雲がもくもくと膨れ上がり、ゆるやかに風に流されていく様子を尻目に、額に汗がたらりと滴っていくの感じた。
(蝉、うるさいな)
鬱蒼と覆い茂る緑からは奴らが演奏会を始めたばかりで、とてもじゃないが観客にはなれそうもない。
腕の捲ったシャツで汗を拭って、やわらかに差してくる木漏れ日に手をかざす。映る光はまぶしくて、でもとても美しい。うだるような夏の気配をあちこちに感じながら、紙袋を手にして住宅街へと抜ける。
夕方になればひぐらしが鳴き始めて、空は金色から藍色に染まっていくのだろう。近所の風情ある民家から線香の匂いが漂ってくると、たまらない気持ちになる。だってあの蝉はもうじき死ぬからだ。この夏の終わり、確かにあいつらは声を失う。

インターホンを鳴らすと、工藤は俺が誰かも聞かないまま入れよとぶっきらぼうに言い放った。
玄関を通してもらうと、この家がいかに雰囲気のある洋館かが改めて伺える。独特の匂いを思い切り胸に吸い込むと、なんだかこの家の住人になったような気がするんだ。
深い色した軋む階段をかけ上がり部屋に入ると、適当に座って、と言う彼が一番適当だ。空調が完備されているこの部屋はこざっぱりとしすぎで、彼がきれい好きだということが見てとれる。
「ふいー、暑かったぁ」
ベッドを背凭れにしてワイシャツの襟首を緩めると、ふと視線の先が気になった。
「こんなときまで、本?」
さっきから長らく立ったまま、本を繰る手は止まらない。こうなってしまえば曖昧な相槌しか寄越さないのを知っているので、こっち座れば、と隣に促してやると彼は素直に従った。片手で本を開く癖は、いつもコーヒーがそこにあったからなのだろう。
することもなくて、辺りをぼんやりと見回す。机の上に飾られた写真は今日のために伏せてあって、俺はその中身を見ることなく、彼の思い出だけにあればいいと小さく願うのだった。
紙の擦れる音に耳を澄ましてどのくらい経ったのだろうか、手持ちの小説を読了した彼はようやく伸びをした。
「これ」
持ってきた袋から古びた紙のジャケットを取り出すと、彼はすっと目を細めて笑って、それを受け取ると同時に反対の手が伸びてくる。腕を掴まれて、何かと思った。
「向かいの部屋にあるんだ」

この家は不思議と住む人によって部屋の匂いが僅かに違う。放課後の教室の、西日に照らされた埃がきらきら舞うような、そういう空気。暑さが混じってなまぬるい。
どこだったかな、と工藤が物置部屋の中を探していると、鈍い衝突音がした。どうやら頭をぶつけたようで手をやったその瞬間、あった、と彼は口元を緩ませた。
覆っていたビニールを外して出てきたものは、やや大きめの木箱だった。スペースのあるところに置くと、ギィ、と重たげな音と共にそれは開かれた。蓋は開けた状態のまま固定されていて、覗き込むと、丸いターンテーブルと細かな部品が僅かながら取り付けられている。
「たぶん使えると思うけど」
縁に溜まった埃をふっと息で払って、箱の右に飛び出たハンドルのようなものを回し始める。
「ぜんまい巻いてるから、それ、出しておいて」
今日持ってきたものは、父さんが残したもののひとつだった。日焼けした表紙に、のっぺりとしたインクが乗っている。四角いジャケットから黒い円盤を取り出した。レコードだった。つやりと輝くそれを蓄音機にセットすると、あるべきものがようやく元の場所に収まった気持ちになって今から胸が高鳴る。
工藤は新しく針を付け直してから、ストッパーを外した。レコードが回り始めてとうとう針が黒い曲線をなぞっていく。ぷつりと雑音が途切れ途切れ、数秒後、音が大きく鳴り響いた。バイオリンの美しい一音から始まるそれは、次第に大きな広がりを見せていき、重なってふくらんで、静かに消えては波のように追う。
物に囲まれたまま、工藤も俺も黙っていた。そのうち瞼が伏せられて、心地よい緊張感、夜が澄んでいく。
カーテンの隙間から少しずつ涼しい風が吹いてきて、二人の汗ばんだ身体を冷やしていった。
曲が終わりかけて、レコードの上で踊っていた針が円の中心に向かっていくころ、また違った雑音が聞こえ始めた。
「愛する妻、そして我が息子へ」
そう一言、父親の声がこの耳に確かに、届いたのだ。
あまりの懐かしいそれはあっという間に俺の心を追憶のかなたへ葬り去り、それから一気に俺を現実へと引き戻す。再生が終わると、ポン、と黒いレコードは何枚もの花びらになって、宙を舞った。小さな春だった。顔なんてくしゃくしゃになっているに違いなくて、何も言えなくて、ただただ心が震える。
一輪の花をあなたに。人を喜ばせるマジックが、俺は好きだった。それは今も変わっていない。
薄紅は散り散りになって、力のない手のひらにその欠片は落ちていく。まっすぐな眼差しを向けられて、工藤の指先がそっと頭の後ろに回る。抱き寄せられて、その温度に安堵しながらゆっくりと息を吐いた。
「少しだけ」
泣いてもいい、と弱々しく、聞き取れないほどの声で俺は呟いた。
工藤は静かにああとだけ返事をしたきり、そのままでいた。彼の少し華奢で骨ばっている肩は、それでも大きく俺を包み込む。子供のころ、父親の肩先で何度だってその未来を夢見ていた。本当の話を、いつかできるといい。
「工藤、俺ね」
ほんとは、本当はね。
いつかの景色を思い返しながら、できるだけの笑顔でそう俺は続けるけれど、これ以上は言葉にできなかった。どこからか花びらが一枚はらりと落ちて、頬を滑る涙のように姿を消していった。

こんなふうにして、君と夜明けを待っている。

さよなら子供たち