「大事な人だよ」
何一つ隠し事なんてない表情で、タイキさんは空に向かってやわらかく笑いかける。そうして一歩踏み出された歩幅を見送って、一年先に進んでしまった後姿が、自分よりも伸びた背丈がなんだか切ないことに気がついてしまった。
だいじなひと、と俺は再びその言葉を口の中で転がしてみる。角砂糖が溶けたみたいにそれは甘さを持って、広がった気がした。
置いていかれるのが嫌で、本当はいつだってその場所まで辿り着きたくて、気恥ずかしさを紛らわすようにその背中を追いかけている。
自分にだって好きな人が、といってもただの幼馴染で、今はまだそういう感情を思ったこともなかったし、もしもそんなことを尋ねられた日には慌てふためき、最終的には顔を赤くして否定してしまうのだろうけど。違うのに、まだわかりもしないのに。
突拍子もないことを聞いたのには理由があって、アカリさんと付き合っている、というようなうわさを偶然にも耳にしてしまったからだった。どのタイミングでその話を切り出したのか、忘れてしまったくらいには衝撃的な答えだった。
隣に並んで歩いていると、彼の横顔がふいに大人びて見えて、たった一年の差を思う。鼻筋の通った、きれいな曲線のシルエット。どうしてこんなに違うんだろう、一体何が違うんだろう。
知りたくて、まっすぐに矢を射るみたいに俺は目を大きく開けて、見つめ合えばきっと何かがわかるのに。その視線に気づいて彼が振り返る、たった一瞬が永遠になる。
瞳を交わしたはずのタイキさんの顔にはわずかな陰りがあって、わかりあえないもどかしさに、俺は余計に彼の目に映り込みたいと願ってしまう。食い入るように、見つめ返す。
だけど彼は、俺だけにどこか遠い眼差しを向けるのだ。例えば今みたいに。
「タイキさん、ときどき俺を見てないでしょう」
彼は瞬間、息を呑んで、それから諦めに似た表情で笑うのだった。
透き通った薄いガラスが音もなく割れていくみたいだ。悲しそうに揺れてる、俺とは違う、誰かを見てる。
「どうして、」
自分よりも大きな手が降ってきて、続くはずだった言葉は止まる。頭の天辺から心もとなく落ちていく欲望の行方を俺はまだ知らない。
そうだなあ、と切り出された、ここではないところに響く声。
「俺は、俺の今までのすべてが大事だよ」
二人の間には強く風が吹いて、声なんて浚われてしまいそうだ。消えたがっている、俺はまだ彼にとっての、追い風にも向かい風にも、なれるはず。
「お前と出会えたことも、今ではよかったってちゃんと思えるんだ」
自分に言い聞かせるみたいに放たれたそれは、わずかに擦れていて、俺は今にも崩れ落ちそうなタイキさんを救い上げてやりたいような気持ちになる。どこにも行けない、逃げられない、連れ出せない。
太陽に向かって伸びた髪に、彼の細い指先が触れている。ひどくやさしい手つきで、それは俺の心を掻き乱す。
耐え切れなくて、うつむいて目を瞑った。
髪にキスをされたのだと、気づいたのはもうずっと後のことだった。


ひとつだけ