後姿を追っているだけで十分だった。振り向かれたらそこで終わりだと、そう思っていた。部活の帰り道、気づかれないようにゆっくりと、彼の後ろを歩く。
初めてその人を目にした瞬間、一番関わりたくない人物だと直感的に悟った。きれいで澄んだ空気を身に纏って、人の良さのにじみ出る柔和な微笑みを誰隔てなく与えることができる、菅原孝支という人物そのものがすべて自分には持ち得ないもので構成されていた。ああいった善良な人間は、俺みたいな人間を理解できない。
やわらかく揺れる髪や肌の色の白さ、左目の泣き黒子。目の端に入れるだけでも胸が痛いのは、自分の気持ちが罪悪感で塗れていくから、彼の気高さを、その美しさを嫉妬で汚してしまうことを恐れていたから。それでもどうして、彼の後ろを追ってしまっているのだろう。道が一緒だからというのはいいわけにはならない。
この先の道を右に曲がってしまえば、次の交差点で信号を渡る彼を見送ってしまえば。舌打ちを心の中でして、らしくないと思考を振り切ろうとしたそのときだった。
ぴた、と規則正しく歩行していたそれが動きを止めて、どうしたらいいかわからず、硬直する他なかった。
「ねえ、月島」
後姿はふいに問いかけた。見てもいないのに名前を呼ばれて、緊張で全身が強張っていく。心臓が跳ねて、血が逆流していくイメージだ。
その背中だけ、見ていたかったのに。振り向くなと願うのに、こればっかりは叶わないんだろう。一定の距離を置いて振り返った彼は、笑っていなかった。試合中に見せるような精悍な顔立ちで、きゅっと唇の端を結んでいた。
「月島は、俺のこと嫌い?」
はじめは言葉の意味がわからなかった、この人に何かしたかな、確かに話しかけないまま後をつけたりしたけど、と脳裏に巡るのは彼のやましい妄想ばかり。動揺を見破られそうで、何か言葉を口にしただけで嘘が本当になりそうで、怖い。
「そんなこと、ありませんよ」
至って冷静な口調で言えたはず、この適度な距離を保ったまま、いられるはずだった。射るような視線を感じて今すぐにでもここから逃げ出してしまいたかった、やたら喉が渇くから真夏の太陽に照り付けられているような気分だった。
ふいに、月島って、と彼の薄い唇が、スローモーションで動く。
「眼鏡外すとどんな顔?」
近づいてくる彼の足音が俺の首を絞めていく、まるで真綿のようだ、その存在までもが。明確に引いたはずの一線を軽々と越えて、その美しい指先が伸ばされたとき、俺は観念して目を閉じた。そうしてもう一度開いた視界がひどくぼやてけているのを承知の上で、彼の瞳をまっすぐに見ようと思った。
「かわいい」
彼は満足げに笑っているのだろうが、輪郭と顔のパーツがおぼろげに見えるだけだった。彼の笑顔を間近で見れることなんてそうそうないのに。
「わ、見えない」
そうこうしているうちに俺の眼鏡はついに主人を替えてしまったようで、嫉妬どころか自分の眼鏡が掛けられている想像をして卒倒しそうになる。返してもらおうとそのやわらかなそうな髪と耳元のあたりに触れて、ああ、今度は俺が線を踏み越えてしまった、と思ったところで爪の先と眼鏡のつるとがぶつかって、音を立てた。
「見えてないんですよね」
想像通りの猫っ毛の髪を撫でてから徐々に顔を近づけて、唇を押し付けてしまうとそれはあっさりと奪えてしまった。
「俺も見えてないので」
心拍数が早鐘のように鳴っているけれど、虚勢を張ってにっこりと笑ってみせる。家に帰ったら間違いなく反芻するのだろうけれど、今だけは2年分、背伸びしていたい。
手強いなあ、と彼は眼鏡を外して、俺に手渡した。取り戻した視界で彼の頬が桃色に染まっているのを確認すると、口元が緩んでしまいそうで必死に表情を抑える。
その日は二人並んで、歩いて帰った。

# 歩 い て 帰 ろ う