目覚ましが鳴って、ぼんやりとした意識を振り払うようにベッドから降りた。
明け方の空がまだ薄暗い中、指定されている時間よりずいぶんと早く家を出る。行き先なんて思い当たらなくて、結局これから何百回も通るであろう道をそのまま歩いていく。
鳥のさえずりを聞きながら、白んでいく空を見上げると、ふと思い出す。昔の話だ、後悔なんてしても仕方のないことだった。俺は、前に進むためにここにいる。目指す場所はたったひとつ。あのコートの上だけだ。

学校に着いたと同時に、見知った人物と鉢合わせした。一緒に歩きたくなくて、早足で体育館へと向かおうとするが、向こうも負けじと追いついてくる。どんどん足は速くなり、ついには全力で走り出していた。
「お前、なんなんだ」
肩を上下させながら、俺は横に並ぶ日向に向かって文句をつけた。汗ばんだ額を拭いながら、跳ねたオレンジの髪がふわりと揺れる。
「そっちこそ、なんでこんな朝早くにいるんだよ」
それは俺のセリフだ、と言いたいところだったが、実際ここに来たからといって、コートの中に入れなければ意味がない。当てもなく家を出てきただけの俺は、言葉を濁して終わった。
口を閉ざし沈黙を貫いていると、チャラ、と金属の擦れる音がした。ちらりと見やれば、視線がかち合う。
「なんでお前がそんなもん持ってんだよ」
目の前を扉を開けるための、鍵だった。へへ、と日向はしたり顔で笑って、一緒にやろうぜ、と言った。
そうやって、バレーのこととなるといつだって瞳を輝かせて、とびきりの笑顔で笑うんだ。
本当はもしかしたら、期待をしていた。ここに来れば会えるのではないかと、心のどこかで思っていた。胸の鼓動が大きくなっていく。俺は奥歯をぎゅっとかみ締めて、わざと顔を強張らせて体育館へ入っていった。待てよ、と慌てて日向も駆け出していく。

練習でも本番でも日向はいつだって全力だった。高く高く飛んでいくあいつの姿に、目を奪われていた。俺の一歩先へ、力強く踏み出す足。まっすぐであり続けるその姿が、羨ましかった。初めてプレーをして決まったあの瞬間、心の底から嬉しかった。
強めに打ち上げたトスが、思わぬ方向へ飛んで行く。止まることなんて知らない日向はそれすら拾ってしまうのだろう。あ、と思ったときには、スローで流れていく景色、日向が少しおかしな角度で落ちていく。それでも上がるボールはあいつのものだった。
「おい、大丈夫か」
駆け寄ると、日向は上半身を起こして、苦痛に顔を歪めながら大丈夫、とだけ答えた。
「そんなにひねってないから」
膝を見やると、小さな擦り傷ができていた。たくさんの傷跡や薄く変色した痣がそこかしこに散らばっていて、俺は思わず親指の腹でそれをゆるくなぞった。
(こんなになるまで)
自分よりずっと傷だらけの足を眺めて、痛々しさすら思って、それでも伝わってくる、好きという気持ち。
目線を下に落としたまま、擦りむけた膝に唇を触れ合わせて、舌先で舐めた。しょっぱい味がする。日向の指先がびくりと震えて、握り込められていく。言葉はなかった。
ゆっくりと見上げて顔を覗き込むと、あいつは頬を朱色に染めて、それからようやく、なにすんだ、と俺を睨みつけた。泣いたり、笑ったり、怒ったり。感情むき出しのそれはただ一点を見据えて、まっすぐに、誰かの心を打つだろう。
(それでいいんだ)
お前は、俺だけ見ていればいい。

「立てるか」
何事もなかったように平然と手を差し伸べると、瞬時に勢いよく振り払われた。
「俺は女じゃねーぞ」
その発言に笑いを堪えきれず、固く結んだはずの口元が、表情が崩れていく。わかってるよと心の中だけで返事をすると、むっとした顔のまま日向は立ち上がって、落ちているボールを取りに行った。
俺はこいつにどんな顔をさせたかったんだろう。どんな言葉を、聞きたかったのだろう。
胸に込み上げるこの気持ちの名前も、わからないまま。

# 恋 の 呪 文 は