白い廊下の光の筋をふと目で追ったその先を飽きるほど眺めていた。一本の線の上に小さな虫の死骸がまるで楽譜の上の記号のように音を奏でようとしている。いつか図書館で見た鉱山物の標本の、エメラルドの透ける光の屈折角。生え際の黄色から空気に触れて酸化して、徐々に輝きを増していく。
(蝉の羽ってこんなに美しかったかな、)
幻覚でも見ているのだろう、手に取れば驚くほど軽く、握り締めてしまえばあっさりと失うであろうそれを両手で包み込む。やわらかさと生温かさが触れたところでようやく羽化した状態にあることに気がついた。
そのとき、通路の先の暗闇から人間の足音がした。脳裏で悪い予感がして、焦りを感じた神経が考えなしにその手を後ろへ回し、ポケットへ押し込めてしまった。虫の死んでいた場所に足の裏を付けた人物は、その動作を少々疑問に思ったようだが眉をひそめるだけで、僅かに開いた口からは空気が漏れていた。

虫は死んでなどいなかった。鮮やかに色を染め上げた指先の黄緑は確かにあの蝉の血だ。
いつになったら見せてくれるかと、立ち尽くした男は言った。唇を堅く閉ざしたまま、瞬きを数回、横目で流す。隠しているだろう、なんのことだ、自分は言った。ぬめりとした感触の手を差し出したとして何ともないはずなのに、後ろめたさばかりが後を引く。腕を掴まれて、とうとう観念して目を瞑る。露になった手の内には男の期待したものは何一つ持ち合わせてはいなかったらしく、舌打ちが聞こえた。青白くこびり付いた粘液を想像した指の先を見やる。何も変わりはなかった。蝉と出会う前の手のままだ。

じわり、じわりと男の靴の裏から蝉の血が溢れ出している。つやのある緑が自分の足元まで及ぼうとしていた。その足をどけてくれないか、頼めば男は怪訝そうな表情を浮かべたままその場を退いた。男にあの虫の死骸は見えないのだろう、美しい羽は粉々に割れていた。その破片に静かに触れる。すると胸の奥から込み上げる感情などあるはずもなかったのに、なぜだか涙が零れ落ち、目を開けるとそこは白い海だった。



トポロジーの幻覚