人生のおよそ半分は、どこにでもいるようなありふれた人間のうちの一人だったように思う。 朝、目が覚めたとき、顔を洗って髭を剃って急いでスーツを着る準備をしなくていいのだと、木目のやわらかな天井ともらいものの古びた箪笥が目に入り、ふっと息を吐く。大きな安堵感とは裏腹にびっしょりと背中に冷や汗をかきながら、きらびやかな生活への懐古の念が遅れてやってくる。箪笥の角はすっかり丸くなっている。ここにはもう、生きるために必要なものしかない。 人里を離れ山奥に暮らすようになってからは、全てが一から始めることばかりだった。たった一人で乗り越えられたとは決して思わない。彼がいたから、ここまで来れたのだ。 そんな日々を思い返しながら、森の中でひたすらに薪を割っていると、自然の中に自分が溶け合い、全てがなくなっていく感覚があった。季節で移り変わる虫の鳴き声や、鳥の囀りの美しいこと、木々は風に吹かれてざわさわと騒がしくなり、地にはらりと葉を落としていく。踏んだ土と乾いた葉の感触、細い木の枝、足元をよく見れば、蟻、ミミズ、ダンゴムシがいる。こんなにも自然に触れたのは、子供の頃以来だった。 自然と一つになる感覚は、次第に充実感をもたらした。自分が生きていることを享受されている気がした。蝶が来ても、蜂が来ても、熊が来ても、驚かない。彼らは生きている、俺と同じように。ただ生きているんだ。 空の色は移り変わり、澄んだ青が群青に染まる頃、一仕事終えて帰路につく。陽の光がなくなれば動物たちは身を隠し、眠りにつく。人間も同じように、あとは休息を取るだけだ。たったそれだけのことに気がつくまで、こんなにも時間がかかってしまった。 いつもの夜が来て、同じ日々を繰り返し、繰り返し、繰り返す。単調だが自然の摂理に従うことはなかなか自分の性に合っていた。 暖炉に自分の割った薪をくべて、自作のウッドチェアに腰掛けるときしりと歪んだ音がする。 いつもと違ったのは、テーブルの向かいに彼がいたことだった。揺らめく炎に照らし出される、柔らかく垂れる黒髪と整った横顔のシルエットは上品で、いつ見ても芸術品のようだった。一度しか触れたことのない頬に、鼻筋に、唇に、陰影がゆらゆらと、自分の作り出した熱が映る。 「君の薪はよく燃えるから、いつも助かるよ」 声のトーンも穏やかで優しく、人柄が滲み出ている。正直なところ彼の困った表情も好きなのだけれど、安心しきって笑うこの顔が自分だけに向けられていたら、なんて思うのは傲慢なことだろうか。 「代わりにいつものあれ、チョコっともらってますから」 小さなパン屋ではあるものの、彼の手で作られた彼の一番に愛するあんぱんをもらうのは恒例行事で、日々の楽しみのうちの一つだ。 ふふ、と漂う煙のようにふわりと微笑むその視線の先にあるものは、いつだってかまどの中にあるそれだけですか。……喉まで出かかっている言葉は一度だって声になったことがない。 静かな夜だった。火の粉がぱちぱちと弾けて泡のように消えていく。たぶんきっと、俺の気持ちとともに。 「私はこの時間がとても好きだよ」 「そいつはどうも」 照れ臭くて、ストレートな言葉につい返事を濁してしまうが、どうにも顔に隠しきれていないことはわかっている。 「……きれいだ、とても」 暖炉の橙を見つめながらうとうとと瞬きをする彼は、ただ静かにそのときどきの空気に身を任せる。動きを止め、ゆっくりと閉じられた瞳に一瞬、彼が呼吸をしているかしていないかわからなくなった。眠ってしまったのか、生きてるのか、死んでしまったのか、急に不安になって、立ち上がってその顔を覗き込んだ。ぱちん、と火が燃える。 せめてその頬に触れようと思って、思った時点で心拍数が尋常じゃなく上がっていて、震える指先が宙をさまよう。瞬間、火傷の跡の残る白い腕が確かに、何らかの意図を持ってこの手を掴んだ。 ──胸の痛みのようにぱちんと舞う火の粉を、劣情に揺れる心を映す炎を、簡単には消えない芯の熱さを、きれいだと、あの薄い唇が。 掴まれた手はやがて引き寄せられ、彼の胸の真ん中に押し当てられた。どくん、どくんと一つの生命が生きている音がする。彼の内側に、触れていいのだと言われた気がした。 彼は森の中で誰よりも美しく狡猾で、少年のように無垢で好奇心を滲ませた目をして、大胆不敵に笑ってみせる。 「ここに火をつけたのは、君さ」 #着火の行方 とある方へ |