「お前はいい」 自由を手にしたんだろう。そっと背を狡噛に預けて、俺は天を仰ぎ見る。 学生時代に彼がこんな世界もあるのだと、青かった俺に教えた道徳に反するぎりぎりの遊び。そこに行けばハッパを吸うかと持ち掛けられたり、違うフロアでは頭が割れそうな音量でクラブミュージックが流れていたりする。浮浪者もいれば、興味半分でたむろしている若者たちもいる、アンダーグラウンド。今となってはここが正しい街なのかもしれないと、彼らを見ていて思うのだ。それでも秩序は保たれなければならない。罪には罰を。犯罪係数をオーバーしてしまった俺は明日にでも外に出られなくなるだろう、そうなる前に会っておきたかった。 歩を進めれば示し合わせたかのように、彼はそこにいた。学生時代の頃よく待ち合わせをした、ネオンサインの光る薄暗い路地の奥。俺がこうなることすら見抜いていたのだろう、敵わない。一度だって敵ったことなどない。 瞬間目が合って、狡噛は笑っていた、それは柔らかく、昔を懐かしむような色をしていた。目視できたのはその横顔、一瞬だけだ。彼は翻るように角の柱にさっと身を寄せた。俺は手錠を持つ立場なのだから当然のことだろう。 最後に話がしたい、と冷たいコンクリートに向けて発すれば自身のエコーが小さく響いて消えていく、動もすればジッポの擦れる音。柱の奥から煙が立ち昇る。来い、ということだろう。佐々山が死んでからいつも身に纏っていたアメリカンスピリットの匂い。こんなに皮肉な結果になるなんて、あの頃は想像もつかなかった。 (自由って、切なくないですか) 彼へと繋がる橋を噛み締めるように渡りながら、知りもしない少女が何気なくこぼした言葉の意味を今更ながら反芻してみたりしている。 たどり着いて、その薄汚れた背中を見たとき、もう二度と奴に関わってはならないという誓いと、出会えたという矛盾、じわりと広がる歓喜が胸を刺す。どうしようもない、どうしようもなく俺はお前を許したい、許したくない、自分を正当化できないでいる。 「いつだって俺からばっかりだ」 学生時代を思い出してしまって、感傷的な気持ちが抑えられない。 「そんなことはないさ」 こうして、お前を待っていたじゃないか。 煙たがった匂いも、今ではこんなに懐かしい。思い出なんていらないのに、誰よりそれを大切にしていた。 沈黙ばかりだった、特に大人になってからは。今もそれは変わらない。重力に任せて踵を踏んでいるだけの。足が木になって、俺は色鮮やかな世界を見失う。瞼の裏に映るのはいつしか消えてしまった子供の、そのシルエット。 「あの子は死んだ」 白い子犬のような、無邪気で純真で、この世界のありとあらゆる事柄を知りたがった、まだ幼さの残る華奢な腕で世界をまるごと手に入れたがった。よく笑いよく泣き、手のかかる子供は少年であり、青年でもあった。ついに大人になることはなかったあの子はどんな終わりを見て死んでいったろう。 ふっと息を吐いて、彼はそうか、とだけ相槌を打つ、その低音に込められた切なさを、やるせなさを、俺は目を瞑りながら必死に考える。 「何かしたい」 泣きそうになりながら、この世の無秩序を呪う。 「何かって何を?」 弔いだ。俺が縢のためにできることなんて、もう残されてはいないだろう。 あのやわらかな響きが欲しい。誰より正しかったあの頃のお前の声色。そうしたら何かが変われる気がするのに。きりきり痛む胸の奥、心が痛くなって、思い出しかけて、やめる。彼はあっという間に手放してしまえるだろう、そんなもの。俺の予想なんて軽く飛び越えて、ずっと先の未来へ。 「あなたの空虚な心がほしい」 佐々山、縢、槙島と、そこに空いてしまったがらんどうの彼の胸の内。お前はどうしてそう平然と立っていられるんだ。涙で滲んだ目はもう遠くまで認識できない。 (なにもかもなくなりそうなんだ) 突然、誰かの拍手のように打ち付ける雨の音。天井の金網から零れる雨水と、柱を伝い染みていく濁った水。激しく鳴り響く車のクラクション。驚いてびくりと肩を震わせると、指先がかすかに触れ合った、そのまま自然な流れで手と手が重なっていく。 「ギノ」 そのまま引き寄せられて、俺の世界は反転する、それからようやく狡噛の顔を見た、暗がりの中で、もう二度と出会うこともない決意を胸に、それを見た。光る目、猫のようなアーモンドの瞳、まぎれもない彼の笑顔がそこにあって、口角の上がった薄い唇の、そこから飛び出す言葉を待って。 「俺は生きるよ」 お前も俺と同じ気持ちでいてくれたら、嬉しい。 心地のよい、透き通る風が舞う、鮮やかな覚悟がそこにあった。この心の中の風景ごと、偽ることなく。 目の前に広がるのは三叉路だ、左か右か、俺たちは違う道へと行かなければならない。どちらへ行こうか、お前が先に選んでくれよ。 「その言葉、忘れないからな」 俺が俺であるために。ゆっくりとその指先を離して、決して後ろを振り向かず、最後の笑顔は俺だけに向けられたものではないのだ、その重みを抱えて、俺はまた明日を歩いていく。 正しい街 |