バルーンドールの週末


ある朝、下駄箱を覗くとそこには何も書かれていない白い封筒がひっそりと息づいており、首を傾げた俺はそれを鞄の中に忍ばせた。
なにひとつ変わることのない日常をやりすごし、俺はそのラブレターと思われるものの存在を誰にも洩らすことはなかった。帰宅して、母親の手料理を残さず平らげて部屋へと戻る。勉強をしようと鞄をあされば白い紙が指先をかすり、ああそういえばと俺はその所在を思い出した。引き出しから取り出したペーパーナイフをゆっくりと差し入れる。びりびりと引き裂くその様は差出人の気持ちをいたぶるようで、烏丸は僅かに目を細めた。便箋には、好きです、の四文字だけが黒いインクで描かれており、その書体はどことなく高森のものと似ていた。宛名も名前もないそれは大変不可解なものであったけれど、不思議と気持ちの悪いものではなく、むしろなんとも言い表しようのない穏やかさと妙な落ち着きを覚えていた。
その日、烏丸は引き出しから白い封筒と便箋を取り出して、何か小さく呟いてから、入学祝にと叔父からもらった万年筆で、ゆっくりと、その言葉を描いた。


翌朝、また同じように日々がやってきて、学校へ行って、俺は毎日同じことを繰り返す。ただ今日だけいつもと違ったのは、高森の下駄箱を開けたということだ。
人に見られてはまずいようなことをするとき、少なくともそれを後ろめたいと感じるときは却って堂々としていたほうがいい。普段と変わらない様子で、辺りを見回すこともなく、俺はそれをやってのけた。
「なにしてんの?」
そのとき急に声が降ってきて、いつも騒がしい高森が俺を笑う。見られていたかもしれない、と烏丸は息を飲んだ。心臓がどくどくと血を循環させている音がする。返答のない俺に、まあいいけど、と下駄箱を開け、入っている手紙を手に取りまじまじと見つめる。タイミングのいいところにクラスの女子がやってきて、高森はそれをさっと鞄に入れた。女子と挨拶を交わす高森は笑顔を振りまいていて、まるで嘘吐きな子供のようだった。ぽつんとその場に取り残された俺はいつも通りに教室へ向かい、授業を受け、部活をし、家へ帰る。その繰り返しだ。

翌日もその次の日もそのまた次の日も、高森はそのことについて何も言ってはこなかった。誰かに話した様子もない。部室のロッカーで着替えをしていると、ふと床に高森の鞄が転がっているのに気がついた。開けっ放しのそれはごちゃごちゃと色々なものが入っている。なぜか、目にした瞬間から手を伸ばしていた。MDウォークマンに、欠けた消しゴム、女の子からもらった髪留めと、シールのべたべた張り付いたノート、落書きされた教科書、その奥に白い封筒があった。荒っぽい開け方をされたそれは他に目立った外傷もなく、大切に扱われているような印象さえ受けた。
俺はそれをこっそりと抜き取り、鞄の中にしまった。


茜色に染まる遠いグラウンドを見据えた烏丸は昇降口にいた。
「返してよ」
踵を鳴らしたばかりの烏丸は、ゆるりと振り返った。声の持ち主もその顔つきも簡単に想像できる。できるはずだったのに、思っていたよりも高森はずっと真剣な顔をしていた。心の中で少し驚きながら、なんで、と烏丸は腑抜けたような声で問うと、高森は鋭い目線をこちらに向けて、俺のじゃん、と言った。胸の内側で熱いものがじわりと広がって、まるで赤い花が咲いたような心地で俺はそこから一歩も動けずにいた。近づいてきた高森が俺の鞄の中に手を突っ込む。そうして、一筋の光が、俺を見る。
俺の気持ちごと奪っていった高森は、また嘘を付きながら子供のように笑うのだろう。取り残された俺は暫く立ち尽くしていたが、一息ついて、赤く燃える未来を歩き出す。