生温そうな薄緑の床の上を歩く。なるべく気配を殺しながら。
こうして何百人の生徒が闊歩しつやりと磨かれたワックスが次第に剥げてなくなっていくのだろう。なんとなしに今泉は自分の上履きが薄汚れていることに気が付いたので、週末にでも持って帰ろうとぼんやり考えながらトイレに入った。
「いッ‥」
痛い、という唸りに近いそれはどこか聞き覚えがある声で、あるどころかしまったと今泉は舌打ちをした。タイミングを見誤ったなと眉をひそめるけれど、それは鳴子も同じだった。
大きく開いた口に手を当てて、鏡と睨めっこしている鳴子は若干涙ぐんでいて、今泉はちらりと横目で見ながら通り過ぎる。長らく悶え苦しむ声が続いて、今泉が手を洗うころになっても鳴子は鏡から離れなかった。口の中を見ているようだけれど、何をそんなに熱心になっているのか理解に苦しむ。
「親知らずが生えてきよって」
はあ、というため息の後、しばらくの沈黙と、火花が散るような睨み合い。親知らずというものをあまりよく知らない今泉は突飛な行動に出た。
「口あけろ」
命令口調で言われて応じるわけがないのをわかっているくせに、つい手が出てしまう。
「なんやこのスカシ泉!」
掴み合いの喧嘩になり、当然鳴子は暴れるけれど体の大きな今泉が優勢だ。とうとうトイレの個室に放り込まれて、顎を掴まれる。
「早くしろって言ってんだろ」
自然と見上げる形になった鳴子は仕方がなく観念して、おもむろに口を開いた。
上か下か、右か左かを問われて、ぶっきらぼうにもその問いに答えてやると今泉は機嫌をよくしたのか、小さな歯だなと気づかれない程度に笑ってみせる。横に向いた、生える方向の間違った歯がひとつあるはずだ。顔の輪郭に手を添えられて、その触れ方が優しかったことに鳴子は少し驚いて目を見開いた。それなのにどんどん顔を近づけてくる今泉に負けてしまい、なんだか心の中まで暴かれた気持ちになった。薄暗いせいもあってか、奥のほうまで見えないらしく何度か角度を変えながら覗き込まれる。
「もっと」
自分より大きな子供にせがまれて、今度は思い切り口を縦に開く。いつまで続くのかと鳴子は文句のひとつでも言ってみせるけれど、声がふにゃふにゃしてうまく伝わらない。時折歯が痛むせいで、涙が滲んで視界がぼやける。より一層屈辱的だと鳴子は思いつつも、誰も今泉を止めることはできない。親指で唇を、つ、と撫でられたと思ったら、何を思いついたのか指先が遊ぶように口の中に入ってきて、反射的に噛んでしまう。
「ッ、」
噛まれたほうではなく、歯を立てたほうがよっぽど動揺している。顔色を変えない今泉はそれでも指先をそのままに、噛むなよ、と念を押してくる。こいつ頭おかしいんとちがう、と思いながらもふいに掴んだ服の袖を離せずにいる自分もどうかしている。舌先が今泉のそれに触れたせいで、少ししょっぱい。
いち、に、さん、し。真ん中から右に向かって人差し指は動いていく。ご、ろく、しち、はち。唱え終わると同時に赤く腫れているそれに触れられて、鳴子はもう言葉にもならない。
びりびりと電気のような衝撃が走り、たぶん跡が残るくらいには力を入れてしまったと思う。
声を荒げると、今泉の顔もわずかに歪んでいた。
「親知らずって、これか?」
ゆるく頷いたにも関わらず、また一番痛い部分を強く押されて、噛まないように必死に口を開ける。涎がだら、と落ちるのと、涙が零れるのはどちらが先だったのだろうか。
(なんでワイがこないな奴の指、守っとんねん)
みっともないほどはあはあと上がる息、ぼたぼたと落ちていく涙。んく、と堪えた表情が今泉の目に映る。
「なんかお前、泣かせたくなる」
自分でもよくわからない、といった困惑した表情を浮かべながら今泉は呟くと、ようやく指を引き抜いた。べたべたになった自分のそれを見て、それから汚くないほうの手で鳴子の口元を拭う。それでも鳴子は泣き止まない様子だったので、しまいにはとうとう舌先で頬を舐めた。
悪い、と聞こえないくらいの声で今泉は言ったけれど、その意味はどれにかかっているのか、本人ですらたぶんわかっていない。今泉の薄い唇、その赤い舌を目で追った後、不可解すぎるその行動に鳴子はぽかんとして、そうこうしている間に今泉は教室へと戻っていく。
完全に今泉が見えなくなったとき、鳴子は今更指のひとつやふたつ噛み切ってしまえばよかったと思いながら、ずず、と鼻水をすすった。

# 悪 い 子 だ れ だ  ...20090805