通り過ぎる列車を見送った。びゅうと風が吹いて、その向こうには冷たく広がる灰色の空と群青とがあった。
季節は冬の初め、吐く息はまだ白くはないもののかじかむ手のひらを丸め込んだ。
連れて行きたいところがあるんだと誰も知らない遠い彼方にふたりきり、目の前に広がる光景が嘘のようだ。

ホームを降りて静けさに満ちた住宅街を抜けると、遠く地平線まで飲み込んだ海が横たわっていた。
ゆっくりと階段を下りて、何も口にしないまま砂浜を踏んで、靴を脱いで。黙った代わりに、海鳥がさみしそうに鳴いていた。パソコンのキーが、指に触れて、声がする。
「それがないと、俺には何も伝えられない?」
こんなひどいことを、言うつもりじゃなかったのにな。
遮るように、俺は首にかけられたそれを奪って、強引に手を取り引き寄せる。裾が濡れるのも気にしないで、波が押し寄せる、冷たい海に足を踏み入れた。
じゃぶじゃぶと沈んでいく身体、振り返れば、その目に映る光、もう一人の自分。
掛けられた眼鏡も、短い髪型も、今のお前を形成するありとあらゆる物事さえも。
(ずっと大事にしてきたんだろう)
いつだってまっすぐで、真剣な目がいつになく突き刺さる。
でもお前は、変わったよ。あのときよりずっと。
「弟をなくさないように、お前はその姿になったんだよな。でももうそれはあのとき居たスイッチじゃなくて、今のスイッチとして、和義、お前は、お前として生きていい」
正文は、スイッチはもういない。笛吹和義としてのスイッチに、新しく生まれ変わっている途中なのだと、俺は思う。
ならば俺は、お前の母親のような存在でありたい。
「だからもしお前が、喋れるようになって、笑いたいときに笑えるようになって、一人でどこまでも歩いてゆけるようになったなら、俺の傍から離れてしまっても構わないんだ」
(俺はそれを、笑って見送らなきゃならない)

そのときのスイッチの顔は、たぶん一生忘れない。
足元の海に飲み込まれてしまったかのようにあまりに蒼白い、唇が、僅かに震えているのがわかる。そっと手を伸ばして触れれば、やわらかい、つめたい、いとおしい。
泣き出しそうになる気持ちを抑えて、いつかそこから零れ出す言葉を思い描く。喜ばしいことに違いないはずの未来を想像しては、そんな日がずっと来なければいいのになんて、思ってはいけないことを願ってしまう。
でも、まだ大人にならないで。聞こえないくらいの声で小さく呟いて、おれはスイッチの肩にもたれた。
(母親気取りで、勝手におまえのことを愛している俺を、)

言葉にならなくて、思わず目を閉じる。
冷え切ったであろう指先が、そっと背中に触れて、ゆっくりと心を溶かしていく。
それは確かに血の通った、温かな手のひらだった。


#冬の翼