海みたいに広がる暗闇の中で、自身の影が長く伸びていくのをぼんやりと見つめていた。 その先を辿れば電気も点けずに一人、窓辺に置かれたチェアに腰掛ける彼の姿があった。月の光を浴びてそれは初めて呼吸が成立している、美しい獣のように思えた。彼の周りだけ時が凍りついている、そんな感覚だけが支配していた。 ノックもせずに部屋の扉を開けたというのに、彼は特に驚く様子もなく、どうかしたのか、とだけ尋ねた。色素の薄い髪が淡く光って、反射している。透けるようなそれは昔、三つに編まれたひとつの束だった。 優しかった頃の彼は、常に微笑を湛えているような人物だった。全てを享受するかのようなその笑みは、高貴で気高い、俺にとっての、美しさの象徴だった。 今となってはもう、あの頃のように彼が笑うことは二度となかった。他人を見るような目で、冷えた眼差しでこちらを見るだけだ。 (まっすぐに目を見て、叱ってくれたのに) 伸びる影を追って、彼の近くまで、光の降る先まで、その線の上を歩いてみせる。 「俺のこと、弟だなんて思ってないだろう」 他に家族をつくってきたくせに。 小さな声で低く呟けば、彼の揺れる瞳が、歪んだ口元が、動揺が手に取るようにわかる。 彼は躊躇いがちに目を伏せて、ゆっくりと息を吐いた。 「そんなことはない」 震える声で否定するけれど、俺はそんな言葉だけでは到底満足できなかった。嘘だろうとすら思っていた。心の奥底で本当は憎んでいたんだ。離れ離れになったあのときからずっと。 ここにあるのは激しさだけ。火花が散るみたいに、想いがいびつに焼け焦げていく。 「愛してるって言えよ」 言え、と吐き捨てるように怒りを声にぶつけた。手に力を込めて、その言葉を待った。 彼が本当に俺を思っているならば、響くはず、伝わるはず、満たされるはず。祈るように、俺は唯一の兄に愛されることを願った。 愛しているよ、という抑揚のないその声を聞いた瞬間、俺は彼の肩を掴んで床に叩きつけてしまっていた。崖から転落するみたいに、二人して崩れ落ちていく。 手をつけば、花のように長い髪が一面に広がって、咲き乱れていた。それでも彼は無抵抗なままで、瞳を閉じず、どこか遠くを見つめている。 雨に降られ、ずぶ濡れになって帰ってきたあの日から、彼は一度だってトロンの傍を離れたことはなかった。三つ編みだった髪をほどいたのは。その伸びすぎてしまった髪を切れないのは。 (心を外してしまうしかないんだ) 昂ぶる感情が込み上げて、どうしようもなかった。彼は、もう俺の知る彼ではなくなってしまっていたから。 一粒の雫が彼の頬を濡らして、そこでようやく自身が泣いていると気が付いた。 「W」 名前を呼ばれると、あたたかな指先が、涙の跡を撫でていく。鈍くぼやける視界の中で、彼は憂いの目をして、寂しそうな表情を浮かべてやさしく微笑んだ。 (私はあなたが悲しい顔しかできないことを、知っている) 本当のあいつの気持ちなんて、もう誰にも。帰る場所など、もうどこにも。 彼がそれを望むなら、一緒に世界を征服しようか。この手ですべて、壊してしまおうか。 世界を見下ろし、また見上げることしか叶わない、その窓から髪を垂らすなら。 #ラプンツェル |