上品な皮製のアタッシュケースの中には、毎日違う洋服が入っていた。幼女趣味なものからいわゆるコスプレと呼ばれるものまで、必ず違うものが。 真っ黒でマットな質感のそれに対して、なんてそぐわない中身なのだろうと初めて見たとき俺は思った。 洋服もサイズだけは合っていたが、男装・女装に関わらずランダムに入っていたため、彼の趣味、あるいは何かに固執しているわけではなく、単純に俺への嫌がらせだと思っていた。 おもむろに服を取り出し、着て、と言われた日には有り得ないと言い張り、断固拒否していたのだが、なんだかんだと言いくるめられ、反発するのも面倒くさくなってきた頃、俺は諦めてその服に手を掛けた。一度袖を通してしまえばなんてことはなかった。だって、その後にすることといえば大体決まっていたから。 今日もするのか、と問えば、彼は口の端をゆるく吊り上げるだけで、他には何も言わなかった。普段とは少し様子が違っていた。金属音のこすれる音がして、ケースの中身を見やればそれは紺色のセーラー服だった。 そっと手を掛けようとすると、何もしないで、と声だけで制された。ジャケットを丁寧に剥がされると、耳に吐息がかかる。くすぐったさに目を細めながらも何かの違和感が拭えず、かといって問い詰めることも勇気がなくてできなかった。俺の考えとは違う結論がそこにあるような気がして、今まで築いてきた関係が終わってしまうことが、恐ろしかったのだ。 「ばんざいは?」 向かい合って暫くしてそんなことを言われたので、やっぱり本当は幼女趣味だったのかもな、なんて思わないでもなかったが、彼のひどく優しい声色やその目――他のものを圧倒的に諭すようなそれ――を見てしまったら、素直に従う他なかった。こうやって甘く煮詰めてどろどろに溶かして、俺をどうしようっていうんだ。 ジッパーを下ろされて女物の下着をつけることも、もう慣れてはいたけれど、直接されることはほとんどないに等しかったので、俺は少しだけ緊張していた。 そっと、彼の髪の生え際から、猫に触るような手つきで撫でていく。なあ、と問いかけた。 「どうかしたのか、」 やんわりと伺ってみたものの、彼はびくりと一瞬動きが止まり、見上げるように俺を見つめた。それも上目遣いで。そうして黙り込んだまま、俺にスカートを穿かせていった。 意識だけが浮いていく心地がした。何一つ確かめられないまま、こうして制服を着せられている。 鏡の前に座らされて、客観的に自分のそれを見たとき、ああ、俺は彼の人形だったのだ、と一気に背筋が寒くなった。ナイフが胸の奥深くにじわじわと刺さっていく感覚、凍るように冷たくて鋭い、それ。彼が今の俺をどう思っているのか想像して、ぞっとした。思惑が確信に変わったからだ。 じくじくと痛み、膿んでいたのはきっと俺ではなく、彼自身なのだろう。そうやって笑うことしかできないのは。壊れ物でも扱うかのように触れるのは。 W、と名前を呼んで、髪を梳かしていた指先に触れて、その手をやさしく包み込んだ。 「もういい」 もういいんだ。 カシャン、と櫛が音を立てて床に落ちていく。おそらく、彼の中の繊細なガラス細工を割ってしまった。いつか物は必ず壊れるように、この関係が終わってしまうとしても。そういう覚悟をした。 鏡越しで表情を見やるけれど、彼は指先と肩に視線を向けたままで、それから俯くようにゆっくりと瞼を下ろした。ただの沈黙なのに、底なしの海に沈んでいくみたいに苦しい。わからないことは、わかりあえないことは、怖い。 (それでも、俺はお前を) 繋がっていた右手が痙攣するように震えたので、俺はそれを離した。束縛なんてしていない、もともと自由だったはずなのに、自ら羽を折ってしまったことにも気づかずに。 ようやく、彼がぽつりと呟いた。 「大人はわかってくれない」 一瞬何を言っているのかわからず、疑問符が頭の中でいっぱいになる。 ひたすらにじっと待っていると、大人になんてなりたくない、と消え入りそうな声で、そう言った。 彼とは実年齢の差が数年あった。俺よりも先に”大人”と呼ばれてしまうのは明白だった。 「いやらしい、汚い大人になんてなりたくない」 その悲痛な声に、俺は黙るしかなかった。その数年の差が、わからないという溝を大きく作ってしまっていたから。 (いやらしいことも、汚い手段も俺には使ったくせに) どんなにひどいことをされても、心のどこかで許してしまったのはなぜなんだろう。俺はもうその答えを持っているはず、知っているはず。 どうしてわからないんだろう。 「俺は大人ではないし、もう子供でもなかった。少年でもないし、普通の青年でもなかった」 ぎゅう、と背中から抱きすくめられる。焦燥感とセンチメンタルが、胸の内に染み込んで離れないんだ。 「なあ、俺って誰だと思う?」 その問いかけは、あまりに純粋で、胸に突き刺さってついには棘になる。うまく言葉が出てこない、こんなとき、何て言えばいいのかわからない。だから俺は必死に彼の名前を呼んだんだ。 肩越しに小さな雫が落ちて、ようやく彼が泣いていることに気が付いた。 「学生服でも、セーラー服でも、憧れた」 だからお前に着せるんだ。 紺色のセーラー、スカーフにプリーツスカート、ハイソックス、ローファー、上から下まで、全部。 (ぜんぶ、お前が着ればよかったのに) じわりじわりと内側から湧き上がる感情はそれぞれ対極なものなのに、等しく、また同義なものだった。 俺はさ、お前のこと。低く唸るような声で、切り出した。 「世界で一番殺してやりたいよ」 殺してやりたいくらいに憎くて、愛おしくて、たまらないんだ。 「お前のことが、好きなんだ」 好きだ。口にしてしまえば、あっさりそれはついて出た。割れてしまったガラスは、元に戻らなくても。彼は顔を持ち上げ、面食らった様子で、目を見開いたまま驚いている。 ねえ、心をきれいに切り開いた今のうちに、俺を攻略して、侵食して、奪って、溶かして、触って、その手で、その指で。 「立てなくなるまで、汚していいよ」 だから今日もこうしてスカートを穿いて。 #スカート |