電球もろくに点かない、薄汚いボロアパートの一室だった。
あの部屋で待ってる、という言葉の合図をいつから愚直に信じ込むようになったのか、それほどまでに俺への執着が彼を突き動かすのか、見透かしているつもりで、その実試しているだけだった。
澄んだ色したそれを海の底に沈めたのは俺だった。気高さしか知らなかった子供に手を染めた。
「よお」
不機嫌な顔をむき出しにした神代凌牙は、その瞳に深い悲しみを色づかせて、自ら開いた扉を閉じた。床には物が散乱しているので、まっすぐに歩いてはこられないだろう。
少し動くだけでもぎしぎしとスプリングが唸るベッドの上で、俺はわざとらしく微笑みを讃えていた。ある一定の距離を置いたまま近寄ろうとしないので、そのままでもできることを実践してみる。
「脱いで」
拒否されることを想定していたのに、知ってか知らずか彼は顔色ひとつ変えずにそれを行動に移した。露になっていく白さは真冬の雪を思い出させて、愛犬も、あたたかな暖炉の炎の揺らめきも、何もかもなくしてしまったのだなと掃き溜めのような部屋で思うのだった。
そうして俺は彼に同じことを与えて、二度と笑わせなくしてやったのだ。
(お前は、俺さえ見ていればいい)
虚ろな表情から跳ねた髪の先、薄い肉付きの浮き出た骨や、足の末端までを舐め回すように、この目で犯す。からっぽになった体に、その心に触れたら冷たいかしら、溶けてしまうかしら。そんな期待をしながら、無気力にぶら下がった手を強引に引いた。細い身体が崩れ落ちる、落ちていく瞬間でさえお前は美しい、狂おしくて、愛おしくて、たまらない。
ベッドが軋んでいびつな音を立てる。彼は頭を肩に凭れて、それからまたバランスを取ろうと起き上がる。顔が近い、近づきすぎたから離れてく、スローモーションの景色の中で彼は瞬きをしていた、睫のゆるやかな速度。握り締めたままの手を胸の真ん中に当てると、それはとてもなまぬるい。
「俺のも」
脱がせてよ、と耳元で囁けば眉が引きつるように反応して、怪訝そうな表情が垣間見える。指先はおそるおそる俺の衣服を剥がしていって、ご丁寧に靴まで脱がせてくれた。
口数の少ない彼はいつもより余計に色気を発していて、ふわりと揺れた紫の髪からは甘い花の匂いがした。まるですみれの花だ。
頬から首の後ろにかけてを掬うように撫で上げるけれど、ただ触れただけで、おそらく意味などなかった。何かしらの答えが見つかるというわけではないのに、それでも、手のひらに感じたかった。
どこかから水音がして、ふと目を覚ますとそこはいつの間にか冷たい海だったから、本当はもう息なんてしないでもよかった。そうして抱きしめてみたところで体は二つに分裂したままなのだから。
探り合うたびにお前のからだが汚れていくことも、触れるたびにお前のこころが黒く塗りつぶされていくことも、知っていた。
(何、とも思わない)
その花を手折ったとして、何とも思わなかったんだ。

どろどろに溶けていく神代凌牙の姿を想像していたら、遠くで声がした。首筋を噛まれながら、呻きと喘ぎの混じった吐息で、燃えるような青さで、それは声になる。
「俺はさ、心のどこかでお前を、救ってやりたかった」
唇を離せば、彼は確かに息をしていた。肩を震わせながら、強い瞳で、引きつりながら笑うんだ。
「そうすることで、俺が救われたかった」
右の頬の傷に、そっと指先が降りてくる。一粒、二粒と、海の色がしずくになって、皮膚の上をなぞった。
「なあ、教えてくれよ」
こんなことしないでも、俺は。

彼が何を求めているのか、どんな言葉を投げかけてほしかったのか、俺は知っていた。知っていたんだ。だからこそ、二人で見ていた悲しい海を俺だけのものにしたかった、お前の心が、その美しい瞳が欲しかったのだと、そう言ってしまえたら。
ついに俺はその問いに答えることはなかった。上下する腹から胸へのなだらかな降下を辿って、もう一度目を開けば見慣れたいつもの風景だ。窓の外から零れるオレンジ色の灯が鈍く、彼の素肌を照らしていた。おそらくもう二度とあの光景に出会うこともないだろう。
確かな存在が欲しくて、隔たりを埋めたくて、そのすべてを手に入れることはできなくて、いつかは消えてしまう、彼の瞳の中に映る海は、ここにも、あなたにも、私にも、どこにも。


#十七歳のエチュード