突拍子のない鋼野の行動に時々ついていけないことが、思い出してみれば割と結構あったのだけれど、その中でも今日は指折り数えていい出来事に入るのではないだろうか、と思う。
ほとんど荷物も持たないまま宿に泊まる趣旨を伝え、流れるままに茶色のスリッパをぶらつかせてみる。
ただ一人部屋に取り残された人間は特にすることがないため、とりあえず湯に浸かり露天風呂を楽しんだ後、浴衣に着替えて戻ると鋼野は遠く一面に広がる景色を窓から眺めていた。天気は小雨であった。
和室にも小さな窓があり、そこからも山々が見渡せる。外の空気を吸おうと白い障子を開けようとしたところ、足元には布団が一寸の狂いもなく両隣に敷かれており、なんとも言えない気持ちになった。隙間から零れた風は涼しく、青々とした匂いがして心が落ち着く。でも本当は少しだけ悲しい。だって桜はもう散ってしまった。
風呂に入らないのか、と問えば、ああうん、と生ぬるい返事が聞こえて、細められた目の先の、芽吹いたばかりの緑が瞼の裏をも覆う。薄い桃色の花びらが舞っていても、同じことをしたのだろうか。春も終わり、黙っているだけでもうすぐ夏が来るというのに、昔のように、風鈴の鳴る下で畳の匂いを思うことはもう叶わないのだなあと、そのときなんとなく理解してしまった。あのころはなぜだかわけもなく笑ってばかりいたような気がする。曖昧になって消えそうな記憶を辿ると、鋼野がふとこちらを見やり、口を開いた。
「あ」
と、たったそれだけを言い放ち、勢いよく近づいてくる。たった一歩がとても大きく感じられて、距離がなくなっていく毎に胸が重たく沈み、少しずつ痛みが増していく。
がっと浴衣を掴んで、鋼野はまじまじと胸の辺りを警戒しているようだった。感情のない顔をして鋼野は息を吸い、ようやく口を開く。
「おまえ、もしかして死んでしまった?」
私が亡霊だと、言いたいのだろうか。鋼野の指の先を見てようやく言葉の意味を理解した。着付けの左右を、間違えてしまっていたのだ。
死んではいない、と訂正してやると、鋼野は無言で帯を解いてしまった。それから鋼野は帯を持つ手と、浴衣の襟の部分を交互に見てから、どうしたらいいのかわからないといった様子ではだけていく素肌をじっと見つめていた。動きが停止してしまったので、帯を取り戻そうと指先を触れ合わせたそのとき、何らかの反射が起きて、瞬きの瞬間に腕ごと背後を取られてしまった。
首飾りがじゃらりと音を立てて、それから鋼野が僅かに笑った。ねじれた腕がきしきしと痛み、紺色の帯が後ろに回された手首を締める。耳の裏に鋼野の吐息がかかり、ぞくぞくと背筋が震えた。
「痛くしてみようか」
唇が触れると、伝染して声が漏れる。小さく身じろぐと浴衣が肩から滑り落ちて、ますます体裁は不利になる。肩を噛まれながら、膨らんでもいない胸板を指が模様を描くように撫でていく。
羞恥にさらされている、と思考が働けば働くほど胸が呼吸が苦しくなって、身体がじんわりと熱くなっていくのを感じながら、手のひらに力を込めた。抵抗という抵抗もできないままで、ちらりと横目で追った鋼野の手はもう一着の浴衣に手を伸ばしたかと思えば、急に視界が黒く塗りつぶされた。目隠しをされて、私は色を失ったのだ。

(鬼さんこちら、手の鳴るほうへ)

何度も何度も、鋼野の存在を確かめる、確かめながら、ゆっくりと痛みを享受する。
「どう?」
引きつる頬と、鋼野を感じていられる気持ちよさは比べられない。なんの繋ぎ目も見えないから不安だ、と、行為そのものというよりはずっと奥のしまいかけた感情を、本当は言ってしまいたかった、のだけれど。髪を梳くように爪の先が触れて、唇を舌で舐められる。舞う花びらは、結局どこに行ったのだろうか。

鬼さんこちら、手の鳴るほうへ。
私はただ、何も見えやしない目の前へ、鋼野へ、身体を預けることしかできなかった。



フ ラ ゴ ナ ー ル の 娘