人物を完璧に反射するガラスを指でなぞりながら、アンニュイな表情で巳波は問いかける。鏡のように顔が非対称に浮かび、そうして彼らはガラス越しに目を合わせた。
「ねえ、あの群衆を見て」
ホテルの高層階、きらびやかに映って見える夜景は自分たちのいる場所そのものだ。きらきらと美しく光るただの虚像、最下層に着地すればただの人。見下ろすと、スクランブル交差点には信号機とともに蠢く無数の人の群れ、ちっぽけな車のライトが蟻のように列をなして動き回る。あのひとつひとつに意思があって誰かが何かを考えている。自分ひとりの脳では考えつかない憶測が今この瞬間隕石が落ちるより早く溢れて出している。
目が二つ、口が一つに開く喉、腕が二本、振動の鳴る音が声になって触れる指先、アスファルトに擦れる踵。ここは本当は雑音だらけの掃き溜めで、舌打ちも、喧噪も、誰かが指差した悪の一点に向かって集まっていく。
「私たちの踏みしめる足元には必ず誰かの骨が埋まっている。誰の骨だか、知っていましたか?」
つう、と無数の点滅をなぞり終えた指を離した巳波は都会の夜を背にし、もたれ掛かる。もっとも、あなたが知る人物とは限らないですけれど。そう付け加えて、それこそ作り物のような顔をして笑ってみせる。ナギは端正な顔を歪めて、肩を竦めてみせる。
「その口は、皮肉しか言えないのですか?」
棗巳波は笑顔でしかリアクションをしない。にこりと笑って相手を牽制し、示す答えはそれ以上でもそれ以下でもないのだ。貼り付けたいつもの顔で、こちらに来て、と巳波は誘導する。蜘蛛の糸を張り巡らせて、その時を待っている。
「長い間、大事にしていた歌をあなたにあげましょう。誰の声も届かない、あなたにはその歌さえあればいい」
手招きされたナギはゆっくりと足を踏み出す。一歩、また一歩と着実に、きらきらと美しく光る夜に向かっていく。桜春樹の死体は白骨化して、知らず知らずのうちに自分たちの足元で踏み荒らされている。
巳波は両腕を伸ばして、ナギの頬に触れた。顔色一つ変えないナギの心理を紐解きながら、手のひらでもう何も聞こえないように耳を塞いで、強引に口づけた。
「……その美しい耳を、目を、彼が愛したあなたを、私にください」
醜く悲痛に歪んだ顔は、もう棗巳波と呼べる人ではなかった。六弥ナギにしか見せない、巳波の顔。重ねた唇がヒリヒリする、とナギは火傷を負ったような錯覚に陥るが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「構いませんよ、それでアナタの気が晴れるなら」
ナギは無数の光たちに向かって、放り投げた。しかしハルキはそれを望むのでしょうか、そう言いかけた口を閉ざして。なぜなら死人は二度と口を開かないから。

二人にしかわからない言語で会話をして、夜が訪れるたびに癒えない傷口に触れて、その行為を愛情だと履き違えたのはいつからだったのだろう。
愛し合う理由のその中心に、傷を残していった人がいる。音楽をこよなく愛した作曲家。いつしか美しい音になって、消えてしまったずるい人。
旋律をなぞるように互いの体を確かめて、春樹の残した歌に耳を傾ける。巳波はぽろぽろと涙を零し、いつの間にかくたりと体の力が抜けていく。ナギはそれを包み込むように優しく抱き留めた。痩せ細った体は骨張って、あまりにも痛々しい。
「いつ、終わらせるんですか、こんなこと」
弱々しい声が、虚な目が無情さを訴えてくる。
「いつ? ワタシはどこにも行かないのに?」
ハルキとは違って。口を滑らせそうになったナギは、それこそ皮肉で返してしまうところだった。巳波はナギが自分から離れていくことが前提で、それが当たり前で、ナギはおろか誰のことも信じることができなくなっていた。もうずっと前から、親愛なる桜春樹のことすら、心の奥底では、本当は。
ナギの言葉を聞いた巳波は驚いて、目を大きく見開いた。何度も身体を重ね合わせたはずの相手を、初めてまともに見た気がした。
「ワタシはハルキの歌をもらい、この身を差し出しました」
言葉通りの行動に、巳波は呆れる他なかった。そうしてやっと、六弥ナギという人物について理解する。金色のまぶしい笑顔が、聡明で美しい瞳の青さが、脳裏に焼きついて離れない。
「……馬鹿な人」
巳波は枯れたひまわりのようにくたりと笑って、瞼を閉じる。思い出すのは誰かと過ごした夜のこと。一人、二人と浮かび上がるのは、美しい、ある光の輪郭。


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