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俺はずっとずっと誰より普通で誰より普通ではなかった。通称、千葉サロンと呼ばれるこの部屋のソファは少しばかりくたびれていて、腰掛けるとみしみしと軋んだ音を立てる。ここにいるときだけは、普段被っている仮面が剥がれていく感覚があり、そのくせ何に手を出すわけでもないので、結局誰よりも普通の一般人に近かった。 あの日見た銀色の髪をした美しい男について、誰かが話し始めたとき、俺は密かに耳を澄ませた。以前は別の人物と組んでいたという話で、メジャーデビューの話もあったが有耶無耶になったとか。その界隈で有名ではあるが厄介な男が一枚噛んでいて、なぜ話が決裂したのか、また、組んでいた男はそれ以来誰一人として姿を見ていないらしいという。不思議と、幼児の食べるお菓子の屑のようにぽろぽろとこぼれ落ちる情報は次から次へと俺の手の内へ集まってくる。 ふうん、と思いながら、あの日聞いた「モモ」という人物のために懸命になれることの楽しさを、振り撒かれた優しい笑顔を、いつか俺にも向けて欲しいと漠然と思った。 *** アイドルという同じ土俵に立てるようになった頃には、もう二度と会いたくない人物になっていた。騙し騙しなるべく顔を合わせないようにしていたが、とうとうドラマの撮影で一緒になってしまった。腹を括って、よろしくお願いしますと顔を引き攣らせずに言えたことが奇跡のようだ。 彼の演技に生で触れたとき、ああ、本物だと俺は息を呑んだ。正直、鳥肌が止まらなかった。あれは生きる才能の塊だ。どうしたらあんな演技ができるのだろう。スタッフ含め、観ている人間をあっという間に魅了してしまった。ああいう人間は強烈に人を引き寄せる。きっと、いいものから悪いものまで。 スクリーンで見るより、絶対に舞台のほうが向いている。演技の才能があるのに本人がそれを全くわかっていないどころか、曲を作るほうが性に合ってると言うのだから無念極まりない。 稽古は順調だ。手合わせも動揺しないでできたと思う。ずっと見ていても飽きない端正な顔がころころと表情を変え、俺の前に現れる。この人の、切長の瞳が好きだ。瞬きの仕方が好きだ。目の奥に潜む真実が、知りたい。 「僕のアドリブ、よくついてこれたね」 「……まあ、そのくらいは」 ふふっと笑いながら、靴をコツコツと鳴らして俺の周りを歩いてみせる。 「会うの、いつぶりだっけ? もうのし袋はくれないのかな」 「その話、あいつらには絶対しないでください」 必死になって手を握りしめ震えていると、冗談だって、と肩を撫でていく彼の、薄い唇に目を奪われる。 「あの子たちにはあげてないんだ?」 唇が、いやらしさを含んで動く。人工物のようでいてひどく動物的な仕草だった。 「当たり前でしょう」 「……ふうん」 細い指先で、顎をくい、と持ち上げられる。挑発的な目線が向けられていて、余裕の笑みはまるでCMのようだ。キスしてあげようか、と言われている気がした。俺の気持ちなんてきっと全部バレてて、一生見透かされていて、これほど滑稽なことなんてない。 「やめて、くださいよ」 ノーを示せば素直にするりと降りていく手は、俺が触れていいものじゃない。 他人から見たそれと、自分が見ているそれが、必ずしも一致はしないことを俺は知っている。下積み時代に見てきた、あの人の優しいところ、不器用なところ、見てないようでいてよく知ってるつもりだった。 それでも、俺の知らない顔があること、俺はあの人のすべてにはなれないということ、それはきっと恋に近しい感情であったこと。逆に、あの人から俺へ、何かしらの感情が確かに存在したということ。 許されたいんだろうと、彼に懺悔してしまいたいと、すべての感情を吐露してしまいたいと、ほんとうは思っているんだろう。話したくない過去が多すぎて自分のことをうまく認められない。俺は、俺が思う以上に俺のことを知らない。あまり自分に興味がないから。 ただ一人だけ執着して、執着する自分を何度でも嫌って、それでも忘れ切れなかった人がいる。今も、考えれば考えるほど心が不安定になる。 千さんに、会いたい、会いたくない、知りたい、知りたくない、覚えていたい、忘れてほしい、側にいたい、離れたい、髪の一梳きでもいいから、触れて確かめてみたい。もっと近くで顔が見たい、思わずキスしてしまいそうだからできない。甘やかされたい、叱られたい。抱きしめたい、抱きしめられたい。それらが全て果たされないものであってほしい、ただもしも一生に一度、神様の気まぐれがあるならばと期待してしまう自分がいた。 でも例えば、彼とセックスをしたとする。その行為に対して意味があるようで、実のところそんなものはない。セックスをしたところでなにもない、なんにもないから安心するんだ。 千の整った顔は表情を変えることなく、氷のように冷たく美しいままだ。交わす言葉もなくただ見つめているのが苦しくて、理由もなく追い詰められて泣きそうで、そのうち気まぐれに頭でも撫でられそうだ。気配りなんて普段できないくせに、こういうときだけ察しがいい。もう、観念するしかないと思った。 「……あんたが好きだから、もう何も入れたくない」 かがむように背中を丸め、震える腕を隠しきれずに、告白する。 「俺の心に、入ってこないで」 迷子になった小さな子供のようにそう小さく呟けば、いつか聞いた蝉の鳴き声がわんわんと耳の中で騒がしい。 ゆっくりと目を瞑る。するとあの日の青空があって、出会ってしまったイケナイ人が瞼の裏に映し出される。いつまでも突き刺さって抜けない、鈍く光る銀色の、ナイフのような感傷的なただの思い出だ。それは美しいままそこにあればいい。 ぽたりと垂れていったのは、俺の涙か、いつか見た汗か。好きだ、あんたのことが好きなんです。現実に戻りたくない。何一つ答えを知りたくなくて、その優しい声を聞きたくなくて、俺はとうとう夢の中で泣きながら彼の首を絞めてしまった。 # 割 れ た 仮 面 |