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#プロローグ - 美貌の青空 - 俺の額の中には折笠千斗が死んでいる。額の傷の内側には、千の死体が今も埋もれたままだ。 前髪をかきあげれば斜めの亀裂が入っていて、それはいつの間にか俺を俺として構成する一部になっていた。薄く残った傷跡に触れるとき、俺は千の細く頼りない背中を思い出す。救いを求めるように伸ばされた手も、笑った顔も、音楽の神様に愛されているということも、ぜんぶ。とっくに過去だけれど、俺にとっては大事な思い出だ。長く伸びた髪を未だに切ることがないのも、遠い昔に無邪気にはしゃいでいた二人の夢のためなんだ。そうして今は、千がいつまでも歌を歌い続けられるようにと。ああ、願掛けの話なんかするんじゃなかったな。 ……後悔なんてない。ただひとつ、心残りがあるとすれば。本当はずっと傍にいて、おまえの音楽を聴いていたかったよ。 春の嵐に吹かれて前髪が翻る。見上げた空はあまりに青い、美貌の青空。 #踊れないダンスホール 小田急線下北沢駅南口から徒歩十分。賑やかな商店街を抜けて三叉路を道なりに進むと、雑居ビルの奥まった階段に小さな看板がある。今日の目的はここでライブをすることだった。下見に来た万理は一旦その場を引き返す。狭い路地や大通りまで、若者向けの古着屋や雑貨屋、おしゃれなカフェが至るところに立ち並んでいるように見えて、レコード屋やどこにでもあるチェーンの飲食店、普遍的な住宅街など、どこかチープさを残すこの街は訪れる者を拒まない。 駅前で無事に千と合流したが、それでもまだ時間が余っているのでぶらり旅。二人はこの地に何度か訪れたことがあるが、古さと新しさがおもちゃみたいにごちゃごちゃと混在する雰囲気に、なんだか取り残されたような気持ちになる。アウェイだと感じているせいかもしれない。特に雑音のひどい狭い道をすり抜け、遠くに来てしまえばすぐに閑静な住宅街に出てしまう。あれだけ駅前に人はいたのに、今はもう誰もいない。近くにあったレコードショップにてお気に入りのアーティストの新譜について語り合う。 ──東京って何だろうな。色々なバンドマンが「東京」を歌うけれど、千も何か思うところがあるだろうか。半歩遅れて後ろをついてくる本物のミュージシャンにいつか聞いてみたいと思うけれど、今はまだそのときではない気がして、いつもやめてしまう。千が歌いたくなったときに、歌って欲しい。 Re:valeの本拠地である神奈川の地元ではある程度知名度が上がり、万理のマネジメントの上手さ、人脈の広さもあってこうして東京でも対バンをブッキングすることができた。バンドマンの登竜門とも呼べる有名なライブハウスでワンマンライブをすることが当面の目標であったが、ネオンの看板が光るその場所ではなく、二人は別のライブハウスへと向かった。 うっかり見落としそうになる簡素な看板の先、薄暗い階段を降りていくと受付がある。ギターを背負っているのですぐに出演者だと理解してもらえたようで、名前を言えばあっさりと通してもらえた。すでに演奏は始まっていて、歪んだギターの音が外に漏れ出ている。 ここのライブハウスの設計は少し変わっていて、ワンルームを低い塀で区切り、ソファで演奏を聴きながらくつろげるラウンジと、ステージのフロアが分離していた。もっとも塀が途中で途切れているのでそこからすぐに行き来できるようになっていたし、なんだか地元にはないアンダーグラウンドな雰囲気があった。時刻は20時過ぎ。客は全員酒を飲んでおり、すでに泥酔している女の子に手を出すような輩もいた。可愛い花柄のシャツを男がまさぐり、フリルの下着が一瞬見える。白だ。治安の悪いライブハウスは初めてじゃない。万理は肩をすくめて、それでも自分たちの精一杯を誰かに届くまで、歌うだけだと気持ちを持ち直す。 「面白い作りのライブハウスだな」 「そうね、あと客も変」 けたたましい爆音の中、ひそひそと耳打ちするように喋った。いつまでも俺の後ろを歩いていた千からは、ぽつりと静けさの残る雨音みたいな声がする。 「言葉遣いに気をつけろ。問題だけは起こすなよ。……今日は金曜だし終電も気にしなくていい。うちに来いよ」 東京まで出てしまうと終電を気にしないと地元には帰れない。その点、万理は高校を卒業してから東京で一人暮らしをしているので、少し頻度は減ったが、千がそこに転がり込むことは以前と全く変わらなかった。 「ねえ、何か飲みたい」 「そうだな」 会場も見渡したことだし、あとは出番を待ちながら対バン相手の演奏を聴いて過ごせばいい。受付でもらったドリンクチケットをバーカウンターに二枚置いた。 「ジントニックと……ミネラルウォーターで」 問答無用で千に水を押し付けて、跳ねている頭の寝癖をさっと直してやった。 「俺はプロモーターの人と話があるから、適当に座ってろよ」 お酒を嗜んでいるのは、単に飲みたいからではなく、コネを作るためだと万は言っていた。千は若干の心細さを覚えたが、こういうとき放っておかれることも多かったので仕方がなく空席のソファに腰掛けた。低い塀からステージが目の端に映る。 ライブハウスにはぎらついた音がとめどなく溢れている。誰かの作った歌が、声が、音が、アンプから大きなエネルギーとなって発散されて、誰かの胸に留まる。揺れる観客を後ろから眺めて、ネオンのピンク、気性の荒い赤、全てを照らし出す黄ばんだライトがステージに強く当たる。原色の光が海となり、ゆらゆらと人が揺れ、幾重にも重なっていく。その音の様子を見ているだけで心地よかった。ボーカルの癖のある、ざらつきながらもクリアな発音の声もあってか、このバンドのサウンドは嫌いじゃない。何よりエネルギーがある。 話を終えた万理は千を見つけ出すと、もうすぐ出番だぞと準備を促した。狭い通路をすり抜けながら万理の後ろについてぼうっと歩いていたら、ちょうど先ほどステージに出ていた男が前から歩いてくる。目が合って、その瞬間骨張った指先が顎をくいと持ち上げたと思えば、挨拶みたいな気軽さで唇を奪われた。触れるだけのそれはずいぶんとあっさりしていて、千には意図が読めなかった。ファンサービス? 僕は彼のファンではないのだけれど。ああ、逆か、などと考えながら万理に話しかける。 「さっきのバンドマンのボーカル」 千は男の背中を横目で追いながら、何かあったら必ず報告しろと万理に言われていたことを思い出す。 「すれ違い様にキスされた」 「……は?」 万理が突然歩みを止めたので、思い切り背中にぶつかった。服に染み付いたタバコの匂いと、アルコールで少しだけ体温が上がった万理の匂いはいつもと違っていてなんだか興奮する。 「女の子と間違えたんじゃない? 僕はなんとも思わなかったけど」 「同じ出演者なんだから間違えるわけないだろ」 振り返った万理はいい顔をしていなくて、眉間に皺を寄せてなんだったら怒る一歩手前な雰囲気だ。 「悪い気はしなかったな、あの歌声は嫌いじゃない」 「そういうことじゃなくて……」 万理はこういうとき、何と言葉にすれば千に一般常識が伝わるのかわからず、途方に暮れてしまう。 「なに、不満?」 「もっと違う」 千は千で、どうして万理が難しそうな顔をしているかが理解できなくて、この話題自体を手放すしかなかった。 「……そう」 千は観客の間をするするとすり抜けてステージに向かう。このままだと、水の中でゆらゆら揺れている金魚みたいな身軽さでどこかへ行ってしまう。ああ、はやく水槽の水を替えなきゃな、ここはあまりに淀んでいる。そんなことを思いながら万理も機材の準備をして、サポートメンバーと合流しステージへと向かった。 二人で声を合わせれば、それだけで気持ちが一つになって、心が合わさった気がした。他に何もいらない。この声とこの言葉とこの音が全てで、もう他になんにもいらないんだ。ギターをかき鳴らしながら万理は切なくなった。表情を崩したくなくて、足元のエフェクターをいじる。 千の歌は、隣で歌っている万理さえ胸を揺さぶる。音楽で評価されたいという千の気持ちが伝わればいい。本当ならここにいる人たち全員に伝わってほしい。そんなの無理だってわかってる。でも、ステージに立ってしまえば、願わずにはいられないんだ。 出番が終わったので万理は早く帰りたかったが、仲のいいPAに誘われてもう一杯飲むことになった。千は今頃どうしているだろうか。地元の愛着のあるライブハウスよりずっと混沌としたこの空間は、嫌悪感があるというよりは、世の中にはこういう場所もあって、誰かに必要とされているのだと知った。コミュニティを築くにはまず顔を覚えてもらう必要がある。何人かイベントの関係者がいるソファには見覚えのない女の子がいた。どうやら初めて見てファンになったと言うが、実際のところは違うだろう。万理は酒を何度も注がれてしまい、酔った勢いでライブハウスに置かれているソファの上で、誰にも見られないようにその場にいた女とキスをした。 #いつかの夜 千の気まぐれはいつものことで、何かしらの要望を唐突にリクエストされるのは取り立てて珍しいことではなかった。こう見えて寂しがり屋なのだ、千は。周りには見せないそんな一面を自分だけが知っているというのは一種の優越感をもたらしたが、万理の心情は複雑だった。甘やかしていることもまた事実であったから。 テーブルに向かって今後のスケジュールを組んでいたら、擦り寄ってくる気配があった。さらりとした指通りのいい髪が腕に触れてくすぐったい。それもまあ猫みたいなものなので放っておく。バン、と掠れた甘い声がして、はいはい、と手を動かしたまま生返事をする。 「ねえ万、キスしようか」 千の唇から飛び出した音がこの耳を抜けて、するっと通過した言葉の意味を脳が理解するのに数秒はかかった。キスってあのキス、以外に何があるのだろう。 「な、に……言ってんだよ、おまえ。酒でも飲んだのか?」 冗談であってくれと祈るのに、振り返れば千の、嘘を知らないやわらかな眼差しが胸を刺す。どうしてこんなにも純粋な感情を向けてくるのだと、その目を見るたび息が詰まる。いつだったかライブ後にソファでしてたの見られてたのかな、と万理は頭の片隅で考える。 「知らない。でも、万としてみたい。……しよう」 「しよう、じゃない! 俺がおまえとするわけないだろ」 千の決意はいつも頑なで、理由も根拠もなければ全てが持論。最初からそうだった。好奇心に当てられたのか、一つのことに執着するとなかなか引かないので結局口論になる。 「なんで」 「なんでって理由がないし、キスする意味がわからない」 「わからないなら余計に、したらわかるかもしれないじゃない」 「わかるって、何が」 「さあ?」 わからないと思っていることをちゃんと言葉にしろよ、と万理は苛立ちを露にするが、ユキは気づかないふりをしてじりじりと距離をつめた。細い指先で万の肩に触れ、ゆっくりと壁へと押しやる。 「おまえな」 「してみたい」 「興味本位ですることじゃないし、俺はおまえの実験材料じゃない」 「なら勝手にする」 急接近してきた口を慌てて右手で覆うと、ユキはみるみる顔を歪ませた。どうしてそんなこともわからないんだと流石の万理もお手上げだ。 「ふぁん」 名前を呼んだはずのくぐもった声の波長が、指の間で振動する。 「千、やめろ。いい加減にしないと怒るぞ」 冷たい目をして訴えれば千も諦めたようで、不服そうに定位置に戻っていく。はあ、と息をついて元の作業に戻るが、先ほどの一件で調子を狂わされてしまい、いまいち捗らない。 はじめは千の曲が好きで、千が苦悩しているのを知っていたから。千の性格を知って、その不器用さに愛着がわいて、どうしようもなく愛おしいなと思ったから。ただ依存されたいわけではなくて、助けてやりたい、支えてやりたい、千の音楽が認められてほしい。相方でもあったが、千自身が少しずつ成長するのを見守る親のような気持ちも持っていた。そうしているうちに、絶対的に信頼されてると感じていた。偏りが出ていた、比重が違った。そりゃあそうだろうと理解はできた。友達とか恋人とかビジネスパートナーとか家族とか。そういうなにもかもに該当しない、そのどれにもなりきれなかった「特別」が俺だった。 違うよ、違うんだ、そうじゃない、千。 伝わらないもどかしさと、自分だけが理解してやれるという勝手な愛情は強くなる一方だ。履き違えた愛情すら、与えたなら無垢なままそれを体に音に染み込ませてしまうだろう。 美しい獣のような男。万理にとって折笠千斗とは、そういう人間だった。 #曖昧な関係 雪が降るにはまだ早い年の瀬。街中にはきらびやかな電飾の飾り付けがなされ、実在するはずもないサンタクロースを迎える準備で忙しい。カップルたちが浮き立つクリスマス・イヴの夜、Re:valeはワンマンライブを行った。場所は新宿、バンドマンなら知らない人はいないほど有名なライブハウスで、チケットは即完売。市松模様の床が特徴であるこのライブハウスは千とも客として観に来たこともある。そんな由緒あるこの場所に出演者としてステージに立てることが本当に嬉しい。バンドマンとしてではなく、踊りをメインとした手法──要はアイドルにシフトしてから、着実に動員数を増やしてきた。 当日は千の誕生日だったこともあり、ライブは大いに盛り上がった。千のテンションはいつも通りで、一度ギアがかかってしまえば熱の塊そのものだった。歌に込められた思いは、このとき誰かに伝わる。自分たちの見た目じゃなくて、この歌に共感してくれる人は絶対にいるはずなんだ。千の歌に込められた情熱は、絶えずこの指先から、喉の奥から、瞳の先で語り続ける。 千は涼しい顔で激しい踊りを難なくこなし、照明のライトに透ける髪からは汗が跳ねる。キレのいい動きに乗せられる、千の声で音で弾けて、使える体、全てを使って表現したくなる。MCなしの熱量しかないライブに過呼吸になりそうになりながらも、そんな命を削るような懸命さで、心も体もひとつにして、オーディエンスを煽ったのは初めてだった。一息ついてアンコールでやっとファンの顔を見渡せば、小さな海のように広がるペンライトの輝きと、フロアに溢れかえる人の待ちわびた顔があって、なんだか泣きそうになってしまった。 打ち上げはスタッフから甘さの抑えたケーキの差し入れがサプライズであり、万理にも知らされていなかったため二人して驚いた。ファンからのプレゼントも当日持ち帰れないほど届いているらしく、関係者以外のものは郵送して送る手配を取った。最高のパフォーマンスをして、応援してもらえている実感と幸福感が満ち溢れ、これまでの道のりを感慨深く思った。帰路についた千はぼうっと窓の外の空を眺めていた。すると、今から帰るから寝るなよ、とだけ万理からメールが届いていた。どこか行くと行っていたのに珍しいなと千は思いながら、寝るかも、と返事をした。 遠くから聞き慣れた足音、それから鍵の開く音がして、それが万理であることを千はとうに覚えてしまっていて、たったそれだけのことにほっとしてしまう。自分の元に帰ってきてくれる人がいる安心感は今日も確実に千を生かす。 がさがさと物音を立てながら慌ただしい様子で万理はリビングに入ってきた。こういうのしか売ってなくて、と手にぶらさがっていたのはトナカイが描かれた売れ残りのワインだ。 「日付、過ぎちゃったけど。誕生日おめでとう」 言葉に詰まっているのか照れているのか、普段よりぎこちなさがある万理が珍しくて、千は目をパチクリとさせた。昨年や一昨年はどうしてたっけ? 思い出せない。万理にしたことは覚えているというのに、自分のこととなると途端に興味を失うからだ。 「欲しいものあるか? 年末忙しくて何も用意できなかったんだ、ごめん」 「……十分だよ。万に任せっぱなしだった僕が悪い」 万理がオープナーでコルク栓を回している間、千はちょっぴり反省して、棚からグラスを用意した。そうだ、去年は女の子が押しかけてきて、一悶着あって怒られた気がする。 「彼女のほうはいいの」 万理は自身の彼女のことを話さないようにしていたが、居候しているので否応無しに電話越しに話しているところに居合わせ、彼女がいるということはかろうじて知っていた。 「最近別れた」 「ふうん」 あっさりと白状する万理はいつものことだと未練なんてなさそうに言う。 「クリスマスなのになんで一緒に過ごせないの、って言われてさ」 珍しく愚痴ってくる万理は、先ほどの打ち上げでお酒を飲んでいるせいか饒舌だ。 「ごめん、誕生日なのにこんな話して」 眉をへの字にして、本当に申し訳なさそうに言ってくるが、この顔で女は落ちるんだろうなと千は思った。 「まあ僕も関与してないとは言い切れない話だったかもね」 「今までの事を言えばそうかもしれないな」 じゃあ今なんでここにいてくれるの、とは、なぜか聞けないでいた。千は口下手なところがあって、自分の中で自分なりの羞恥を感じると黙り込む癖がある。それを察した万理はさっそく空気を読んだ。 「いいんだよ、大した女じゃない」 「超絶上から目線、ふふ……万がそんなに言うなんて珍しい」 千は万理の言い草に思わず笑って、小さく肩を震わせた。 「おまえのほうが大事だって言ってんの」 「……そう」 千は目を泳がせ、照れたのか黙り込んでしまった。ショートカットの髪からちらりと覗く耳が赤い。可愛いやつ、と万理は千の心情をすべて悟ってしまえたけれど、自分でも柄にもないことをしてしまい恥ずかしかったので、ひたすらに手を動かして準備を進めた。 乾杯、と同時にグラスのぶつかる小気味いい音が部屋に鳴り響いた。万理は家に帰ってもまだ、ライブの高揚感が残っていることに驚く。たくさんの人から千の歌が愛されて、千自身もファンに愛されて、これ以上ないくらい幸せだ。まだまだ次のステージへ行けると思うけれど、万理はこの頃から少しずつ満たされ始めてしまい、自身が生み出す音楽や立ち位置に疑問を持ち始めていたが、そんなそぶりは見せないようにしていた。千がよければそれでいいんだ。今日だけ、今だけ、そうやって自分の感情を誤魔化して、永遠にこの瞬間が続けばいい。 知らない銘柄のワインはあっさりしていて飲みやすかった。度数もあるし、疲れているのもあって二人は簡単に酔っ払ってしまった。体がぽかぽかと熱を持ち、視点がだんだんと定まらなくなっていく。 「二十歳かぁ」 感慨深く万理は宙に向かって呟く。小さな頃から見てきたのではないかと思えるくらい、千のことならもうなんでも知っていた。 「そうね」 「実感ないな」 「……そうね」 ぽつぽつと会話をしながら、間に漂う沈黙すら心地がいい。ゆらゆらと波に揺られているような、とろとろと思考が蕩け落ちていくような、不思議な感覚だ。 寒さで目が覚めた朝、なぜか床に千もいて一緒に布団を被さっていた。成人男性二人が被るには面積の足りないシングルのそれと、はみ出た手足。なぜこんなことになっているのかわからず、上半身を起こしたまま、頭痛に襲われて万理は動けないでいた。 「……寒い」 ぼんやりと寝惚け眼の千がのそのそと動き出した。起きあがろうとした千は、ずる、と布団に足を滑らせた。あっと思った時にはもう遅く、真正面から顔がぶつかりそうになり、万理は千を支えて避けようとしたが、結果的に唇と唇が掠めるように触れて離れていった。……完全な事故だった。お互いに何が起きたのか、一瞬では理解できなかった。 「えっ……?」 ふとした拍子に千は驚き目を丸くさせて、ぱちぱちと瞬きをし始めた。まるで小さな子供みたいだ。 「どうだった」 万理は唇を押さえて、自ら問いながら目を伏せた。 「どうって、何が」 「前したがってただろ、忘れたのかよ」 ようやく気がついた千は、考えるそぶりをしたあといつもの真顔に戻る。 「……そうね。特に……変わりはないかな」 「あったら困る、馬鹿たれ」 デコピンされた千はしばらく不服そうにしていたが、じゃあなんで確認したの、とは聞けなかった。そのかわりに、これが万からの誕生日プレゼントか、ありがとう、と冗談めかしてやった。 唇が触れただけで何も変わりはない。あのときの興味も薄れていて味気ないし、単なる接触事故なので千は何も感じなかった。やわらかいとかあたたかいとかそんなものも感じ取る余裕がなかったが、じわじわと時間が経つにつれ、万理の顔──特にその薄い唇──を見ると、その日以来千は胸の内がざわつくような、妙な気持ちに苛まれるようになった。 #(dis)communication いくら時間が経っても消えない焦燥感があり、千はどうしようもなく煮詰まっていた。パソコンに向かってマウスをいじり、ギターのコードを確認しては五線譜の上に鉛筆で飛んだり跳ねたりする音符を書き殴る。乱暴に書かれた音たちは何度も修正を重ねられたせいで、ついには不協和音を奏で出す。 「俗に言う森に入った、とか沼にはまったってやつだろ。一回休憩しろよ」 「知ったような口を利くな」 知ってるから言ってるのにな、と思っていても口にしない優しさは、本当に優しさと呼べるのだろうか。万理は考える。千の将来のことまで考えて、何度でも思い直す。未完成な僕ら。完成した未来の俺ら。いや、この調子だと何年経っても未完成なままかもしれないな。はあ、と盛大なため息をついてから提案してやる。道を示すのは万理の役目だった。 「どうしたいんだ」 いつもなら音楽的視点から助言してやれるのに、がらくたのおもちゃのようなメロディが積み上がっていたので、頭を抱えた。万理としては一旦作曲をやめさせたかったが、千は違った。血走った目で作曲に向かう姿勢とその執着は、万理にとってずいぶんと遠い昔に失われたものだった。 「どうしたらいいのかわからない」 泣き叫ぶのを堪えたような、不条理を嘆く怒りも混じった声色だった。 「おまえはいつもそうだ、自分の感情に向き合えない。それを歌にすることしかできない」 千と向き合うこと、見えているものを伝えること、それが自分の役割で、例え千が傷つくとしても万理は正直に言わなければならなかった。喧嘩をしても仲直りできなくても、ずっと千の側にいる。そう決めていたから。 図星だった千は苛立ちに身を任せて近くにあったクッションを万理に投げつけた。 「何すんだ」 そのあとは口も利かずに冷戦状態を続けた。にも関わらず、千が万理の部屋に入り浸るのは変わらない。二人がこんなにも長く喧嘩をしたのも久しぶりだった。 #散らかった愛の行方 孤独が好きだった。深夜二時過ぎ、世界が滅びるような色をしている中で、部屋の電気を消して暗闇の中で布団にくるまるとき、隣には静かに寝息を立てている万理がいた。大事な人だった。千にはもう他に誰もいなかった。 起き上がり、そっと万理の布団の中にもぐりこむと、背中に耳をぴっとつけて心臓の音を聴いた。いろいろなことを思い出した。出会った日のことから、音楽でひとつになれた日のこと、キスをしたこと。急に体温が上がって、興奮している自分に気がつく。どうもこうもない。ごそごそと下着の中に手をもぐりこませ、自慰をしながら息を荒げていると、流石に万理からおい、と指摘された。 「……どんな嫌がらせだよ」 万理は千の身に何が起きているかわかっているからこそ、わざとキツい言葉を使う。 「嫌がらせじゃない」 「わかってるよ。……でも俺はおまえとそういう関係になるつもりはないから」 万理は千のほうに向き直って、もう何度目かもわからないため息をつく。 「形式なんて求めてない」 「違うんだ、そうじゃない、千」 こうなるのも時間の問題だと理解していた。気づいていたから焦燥感があった。 「俺は千の恋人にも、家族にも、ただの友達にもなれない」 ちゃんと説明して受け入れてもらわなければ。一度でも許してしまえばなし崩しだ。すぐに飽きられればそれでいい、でも今は、今の千は、俺しかいないんだろう。 「千。俺はさ、おまえのことが好きだよ」 日毎夜毎、冗談抜きで千のことばかり考えている。いつまで一緒にいられるか、いつこの手を放すのか、離すことができるのか、ずっと考えている。 「こういうの本当は全部許せる。けどそれをしたらさ、おまえ、俺に依存するだろ」 千の何も知らない無垢な瞳が、夜の澄んだ空気の中で鈍く光る。翼をしまった小鳥のように、首を傾げて万理の言葉を待っている。 「千の気持ちが本当だとしても……俺はきっと、おまえを満たしてやれない」 万理は少し考え込んで、覚悟を決めた。隣に寝ている千を跨いでキッチンに向かうと、もらいものの高級ウイスキーの酒瓶を持ってくる。アルコール度数は40%を越えているだろうに、安酒みたいにごくごくと大量に飲んだ。じっと見つめてくる目を合わせるまでもなく、万理は今、千が何が言いたいのか、何を考えているのかが手に取るようにわかる、わかってしまう。それがいけない。 頬に触れれば、さらりと冷たい皮膚の温度が指先で交わる。急にアルコールの入った体はどくんどくんと心臓の鼓動がうるさく、吐息はすっかり熱い。自分は今、どんな顔をしてるだろうか。絶対に誰にも見られたくない、千には見られてしまっているけれど。次の行動でどうせ全てが終わるのだから、もうなんだっていい。琥珀色した液体を口に含んだ後、ゆっくりと顎を持ち上げて、なにするのと問いかけてくる千の視線を無視して、強引に口付けた。液体がぼたぼたと垂れるのも、息継ぎができなくて噎せる千にもお構いなしに、万理はそれをした。 「もう二度としない。最初で最後だからな」 余韻も残さないまま再び口を塞いで、千を組み敷いてそのまま深く口付ける。散らばる髪を横目に、舌を絡ませてスウェットに手を入れると、直接性器に触れた。服をたくし上げ体をまさぐって、気まぐれに胸に触れる。続いて浮いたわき腹、おなか、乳首を吸ったり舐めたりしてやる。千は首筋が弱くて、唇を寄せただけで肩を震わせた。魚みたいにびくびくと跳ねている千が夢みたいに朧に霞む。酔いが回りすぎている、今まで引いてきた線も、何もかもがめちゃくちゃだ。吐く息が荒く、体が尋常じゃなく熱い。俺、千で興奮できるのか、死にたい、と無意識に腰を擦り付けながら思う。酩酊したぐしゃぐしゃの視界の中で千を犯せば、頭の中では様々な千が思い返される。出会ったばかりの無愛想な千も、俺だけに懐いてしまった千も、今目の前で気持ちよさそうにしている千も、全部俺の大切な。千は万理の名前を何度も呼んで、呻きながら射精した。 「万は」 息を落ち着けながら、やってしまったという後悔がひどい。何も変わらない千の声色に、一気に現実に引き戻された。しなくていいのかと気遣われたが、恥ずかしいことに、言うか言わないか躊躇うがこの際隠し事はなしだ。 「一回イッた」 「嘘でしょ」 千は驚いて、目をぱちくりとさせている。万理はもう目を開けている余裕もなく、力尽きてしまった。もぞもぞとベッドの中でピロートークをする、恋人でもなしに。 「下着が気持ち悪い、最悪だ」 「いつイッたの?」 「そういうこと聞くかぁ?……大体同じタイミングで」 「……そう」 「異常だよ、俺も、おまえも。狂ってる」 So crazy、歌にするか……そう言い残して、万理は充電が切れたみたいに眠りに落ちた。 千はセックスのような何かがあっけなく終わってしまったことに実感がついて来ず、暗闇の中で瞬きを繰り返した。映画のワンシーンみたいだった。こんなふうに女を抱いたりすることもあるのだろうか、ずいぶんと余裕もなく乱暴な手つきだった。野蛮だったなと意外に思いながら、何度も回想しているうちに千も隣で眠ってしまった。 #終わりの歌が近づいてくる あの一件以来、はじめこそ気まずかったものの、普段通りの千に万理も吹っ切れ、いつもの日常に戻っていった。そうして千は相変わらず楽曲制作に煮詰まっていた。部屋に転がっている千の頭を小突く。邪魔だ。 「歌詞でも書こうと思って」 心にもない声だった。ペンもノートもないのにどうやって書くというのだ。構想なんて練っていないのは明らかだ。 「自分の家でやれよ」 「気分が乗らない」 「その前に自分の部屋を片付けてから言え。どうせ掃除もしないで洗濯物まで溜め込んでるんだろ」 「……まあね」 万理の部屋にはエレキギターだけではなく、アコースティックギターまであった。中学生のころに親に頼み込んで買ってもらったものだという。 万理は結成時、周囲にドラマーが少なかったことからドラムを叩き、欠員が出たためベース、必要であればキーボードと次々にこなしていったため、最終的に大抵の楽器は弾けるようになっていた。やらせればなんでもできてしまうから恐ろしい。千はキーボードを少しとギターくらいだったので、この頃から万理にできないことはないのだと思うようになっていた。 歌詞を考えながら、千がメロディを口ずさむ。大体できてくるころには、万理もなんとなく歌声であわせてくる。万の、そういうところが好きだった。 流れるもの、あなたの中に循環するもの。目を閉じて想像する。万のなかで巡るもの。自分の中で伸ばした指先がなんの境界線もなく概念に触れるまで、を想像しながらメロディに落とし込む。心があたたまる、穏やかになっていく、心地のよい音の波に揺られて、音が紡がれていく。いつまでもこの時間が続けばいいのに。千は歌が出来上がるまでの間、神様に小さく祈った。 #ガラスの墓標 僕が足を踏み外したのだ。 泥濘んだ道で、いつ沈んでもおかしくないような沈没船に二人、乗り込んでしまった。それから氷の張った海の上を歩いて、歩いて、あてのない旅を。 万に照明が落ちてきた。自分ではなく、隣の親友のところに。なぜ、どうして。何も考えられなかった。その日から時は止まり、自分が生きている意味もわからなくなってしまった。ようやく万理の病室に入れた千は、全身の血の気が引いて顔も真っ青のままだった。とにかく万理の存在を確かめたいのに、ここが夢か現実かわからない。 「俺よりよっぽど大丈夫じゃなさそうだぞ、おまえ」 こんなときですら慮る万理に、張り詰めた表情を少しも動かせずにいた千はみるみるうちに泣き出して、崩れ落ちるようにベッドに倒れ込んだ。頭に巻かれた包帯が脳裏に焼き付いて離れない。どうして、どうして、どうして。泣きじゃくりながら、万理に会えた嬉しさと混じって何を叫んだのか自分でもよくわからない。 「大丈夫だよ」 万理のやさしい声と、やさしい指先が、千に触れる。毛布のように千をくるもうとする。万理の存在を感じられただけで、生きた心地がした。他に何もいらないとさえ思った。こんな消毒液のするところから早く出て、万理を傷つけた音楽なんてやめてしまえばいい。前みたいに一緒にいられたらそれでいい。それしか望まないのに。 「……歌い続けてくれ」 やっとの思いで顔を上げれば、万理は笑っていた。あたたかな感情を目に宿らせながら、穏やかな微笑みは神様みたいに遠い。顔に傷を負った男の顔ではなかった。 万理は本当の気持ちが伝わることを願って、見上げる千の、雪のように白い頬に触れた。思ったとおり、冷たい頬だった。 #さよならを教えて この手が嫌い。万の血で、汚れてしまったから。……万を守ることができなかったから。あの日付着した赤がいつまでも取れないんだ。 この目が嫌い。醜いものばかり映すから。何もかも要らないのに、こんな世界で息もしていたくないのに、ステージに上がれと囃し立てる他人ばかりが目の前に立ちはだかる。 この口が嫌い。自分の言葉では誰一人幸せにできないから。自分を守ってくれる人さえ傷つけてしまうから。 僕にこれ以上どうしろっていうんだ。僕は僕という自我を黙殺する。のどがひりひり焼けつくように痛い。ありのままの現実を美しく描くことは本当に正解か? あいつが残していったものは貰ったピックと楽譜と音と録音された声だけ。アルバムの中にいるのは記憶だけ。温もりだってもう思い出せない。自分が思っていた以上に形として残っているものは少ない、あまりにとても少ない。思い出は物質だ。あの日見た景色はもうそこにはなかった。何一つ残ってはいない、頭の中にだけ残る大神万理の脳細胞物質。街並みも瞬く間に変わっていき、知らない風景に僕だけが置き去りになる。 額に散る赤。やわらかな音楽の鼓動に抱かれたこと。万とセックスしたこと。音楽でしか一つになれないということ。 自分のためだけに音楽と話をしようと試みたものの、万理がいない今、指先から零れる音は重く沈んで地に落ちていく。救えない、拾えない、音がない。こちらの呼びかけに誰も応答しない。鳴り止んで消えてしまった、自分の中にあった何かが死んだんだ。おまえなしにどうやって生きていけばいい。 簡単だと万は言った、「手放すんだ」と。僕が、手放したのか。音楽への気持ちだけでは飽き足らず、大切な親友まで。どうしたら楽になれる、どうしたら解放される、どうしたら僕は、許される。バレリーナのように延々と同じところを回り続ける。救いを求めながら、心のどこかで諦めていた。万がいないなら何の意味もない。音楽をやめれば、人間として生きている価値もない。僕はそういう人間なんだ。無気力に沈む体はいつまでも重く、時間だけが経過していく。 遠くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。泥のように眠っているだけなのに、ずいぶんと必死な声だ。 僕を呼び覚まして連れ出そうとするのは誰? 右手も左手も失って目も耳も声も何も、聴こえないんだ。 泣きながら熱い手のひらで僕を救い上げるのは誰? 二人のぶんの涙が桜の花びらのようにはらりはらりと落ちていった。 #宛名のない手紙 墓場に持ってくひとつやふたつ。俺の額の中には折笠千斗が死んでいる。音楽で通じ合う、音だけが繋いでくれた、大事な人。 人は声から忘れていくという。声も顔もおまえがその世界で生き続ける限りなくならない、二人の思い出だけが静かに消えていくんだ。俺はきっと誰より普遍的な人間だったけれど、あれは音楽の神様に愛された才能の塊だ。それはすなわち生きる才能に直結していたから、普通に生きることが苦痛で仕方がなかっただろう。コミュニケーションを介すものが、音楽しか持ち得なかったから。 千に生きる術を教えたのは春原百瀬という人間だった。羨ましさや妬みすら感じない、ただただ彼らの幸せを祈った。さよならだけが人生だ、なんて言葉があるけれど。俺たちにとっては本当に、そうだったのかもしれないな。 帰らぬ人よ教えておくれ。 宛名のない手紙を書くよ、君に、君に。 #君がもう二度と歌わなくなっても 別の扉は開かれる。 その人は、大きな瞳にいっぱい涙を溜めて、千を呼び続けた。抱え切れないほどの光を携えて、そのドアは開かれる。死体の上に咲いた桜の木の花びらが何百何千何万と舞い込んできて、よく見えない。真っピンクの桜吹雪とその溢れんばかりの光の中で、千は、その手を取った。 万がもうここにいなくても。今はまだ見てもらえなくても。いつか誰かに、あなたに、歌が届くように。 # 宛 名 の な い 手 紙 |