扉の向こうでは、シャワーの音が延々と鳴り響いている。パチパチと花火が燃えているような、金平糖でも転がっていきそうな、聞いているにはあまりにも長い時間が経過していた。ナギは不安に思ってノックをした。返事はない。どうしてこんなことになったのか、昨日のことくらいの感覚だ。
たまたま現場が近く、帰りに居合わせたことがきっかけだった。ナギのほうからお茶でもと誘うと、巳波は獣のように今にもりながら後ろをついてきた。人目を避ける目的もあり外資系の高級ホテルに入ったけれど、本当はアフタヌーンティーに連れて行きたかった。ここはブレンドティーがおいしいところだったから。そんなこんなでホテルに入るや否や、頭を冷やしてきますと波はそのままシャワールームに行ってしまったのだった。
「棗氏」
呼びかけに応答しないので、仕方がなく脱衣所に入り浴室のドアを開けた。バスタブの中に立ったまま、頭からシャワーを浴び続けている日波は、鋭い目付きでナギを見る。裸を見るのは初めてではないけれど、彼のことを女性のようにエスコートしたがる人間がいるのは理解できる。濡れた素肌が色っぽいなと思うけれど、ナギの性欲は愛情と直結しているので、それ以上思うところはない。ナギはしょうがなく日波の手首を強引に掴んだ。跳ねた水が当たり、シャツの袖口の色が変わり始める。
「もう出ましょう。のぼせてしまいます」
キュ、とシャワーの栓が止まった。日波はなみなみとお湯が溜まったバスタブの中に入り、縮こまるみたいに体育座りになった。あざあと勢いよくお湯が溢れ出して、排水溝に吸い込まれていく。誰かの感情みたいだとナギはぼんやりとそれを眺める。湯気の立ち上るバスタブの中で日波は、考えている。乳白色のまろやかな水の中。
「全てを与えられたあなたには私の気持ちなんてわからないでしょう」
自分のあるべき姿について、誰かを許すことについて。自分が持ち得たものについて、彼が持ち得なかったものについて。
「あなたにとっての正義は、私の正義ではありません……同じと思わないで」
精一杯の虚勢を馬鹿にしない、誠実で、聡明で、優しくて、そんな人のことを本当はもうわかっているのに。
「美しく、愚かなひと」
言い切ってしまうと、日波は自分の中で何かが決壊していくのを感じた。もうだめだ、隠し通せない。
バスタブに一滴の雫が落ちていく。波紋が広がって、心の揺れる動きが見て取れた。ぽたり、ぽたりと雫は止まらない。ナギはゆっくりと腰を落として、バスタブに手を添える。
「なぜ泣くのです」
情けなくて派が出るからだとは言えなかった。六弥ナギという存在も、自分が彼に惹かれ始めていることも認めたくなかった。
「ワタシにどんな感情をぶつけたところで、アナタの世界の色は変わらないというのに」
ナギの達観している部分も、どうしたらそんなふうになれるのかわからなくて日波は余計に困惑する。だけれど、一度着火したこの炎の色が絶えず燃え続けるなら、そんな心象風景も悪くないと思った。きっとこの先、起こってしまった出来事はひっくり返らないだろうから。
「氏こそ思かで、美しいひとと、思うのに」悲しそうに、寂しそうに、それでもナギは笑みを絶やさない。日波こそ愚かで美しく、気高い人なのだ。ナギは続ける。子供をあやすように、童話でも読むかのように言の葉を落とす。
「この指をあげましょう」
「この声をあげましょう」
「この目をあげましょう」
目を瞑ってナギは捧げる動作をする。両手のひらを差し出し、唇を少し開いて、静かに息を吸った。
「棗氏は本当に満たされますか?」
日波は奥歯が震えてしまい、口を開くことすら叶わなかった。六弥ナギは嘘をつかない。本当にあげると言ったらくれてしまう男だ。そのきれいな青い目が欲しいとねだったら、どうするつもりなんだろう。
「本当に欲しいものは何ですか?」
ナギの伝えたいことがわかってしまい、昂った感情が抑えきれなくて、みっともなく涙が止まらない。本当に欲しいものはもう一生手に入らない。彼の全てを奪っても、醜い嫉妬と根深い恨みが残るだけだ。
「できることならもう誰も、傷つけたくない。それだけのことがどうして表氏をこんなにも傷つけるのですか」
ナギは巳波のこめかみにキスをして、濡れるのもおかまいなしにバスタブに寄りかかった。
「抱きしめさせて、ワタシの全てで」
ハグすると、日波もおずおずと肩口に目元を擦り付けてくる。二人は同じくらい傷ついてきた。その事実が根底にある。でも二人は、同じくらいの熱で、重さで、抱きしめ合うことができる。世界中で、たった二人だけ。


# あ な た の 全 て と わ た し の 全 て