煙の揺蕩う、ゆるやかな曲線を見ていると気持ちが落ち着いた。肺に空気じゃない何かを入れて、汚されて満たされる感覚や、この苦い味を知っていれば大人になれたような気がして、口に含んだ。自覚が薄いのもあるけれど、フィギュアスケートしかない人生は子供から大人への境界線を余計に曖昧にさせた。
耳触りのいい低い声で名前を呼ばれて、いつものように目線だけ向ける。瞬間、すっと伸びてきた手が吸いかけの煙草を奪い、そのままごく自然な動作で唇に寄せていく。丁寧なつくりの指の先からチリ、と火が燃えて、映画のように様になる、渋い面の男が煙を吐き出す。普段向けられるのは穏やかな眼差しで、なのに今日は様子を窺いながらこちらを説得しようとしている。これは、怒るでもなく窘められているんだ。
君が吸うなら僕も吸おうかな、と言われてもないのに、その目配せだけで言いたいことはわかってしまう。簡単に言えばやめろということだろう。
「慎一郎くんはだめだ」
かっとなってひどく乱暴に奪い返すと、子供の反応を見たときのように慎一郎は優しく笑って、純の髪に触れる。滑ったときにはねたのか、寝癖なのかわからないそれを直す。女を愛したその手で、慎一郎は純に触れる。
「煙草なら、僕の方が似合うだろう」
意外にも突拍子もない行動に出る慎一郎に面食らうことが、結構多かったりする。今回なんかまさにそう。
「そんなことない。絶対似合わない」
むきになっていることを自覚しながら、携帯灰皿で煙草を揉み消した。自分のせいで吸ってしまわれては困る、途方もなく困る。品行方正で柄の悪いこととは縁遠く、いつでも「正しい」レールに乗っている慎一郎くんに、間違いなんて許されない。
「……今度甘いものでも食べに行こうか」
「遠慮しとく」
スケートリンクの上では世界中の誰一人にだって文句は言わせなかった。今は、慎一郎だけが氷の上に立つ自分の全てを見ていた。欠けることなく、割れることなく、溶けることなく、慎一郎のたった一人だけ。こんなにも近くでこんなにも遠く繋がっている、絶妙な距離感で氷の上を舞い踊る。滑りながら、自分は確かにここにいるのに、表現に没頭することで誰でもなくなっていく感覚が、自分の人間としての全てなのだとも思う。
信じられる人はもう君しかいないのに、と純はスケート靴の靴紐をほどきながら、吐き捨てるように小さく呟いた。
氷の上に立てない自分は無力だ。スケート靴を捨て、裸足で地に立とうとするとき、何の力も持っていないと自覚する。けれど、慎一郎はそうじゃない。この打ちひしがれるような無力さは誰にもわかられてはならない。
甘いものでも好きになれたら、世界は変わったのかな。スケートリンクの出入り口を閉めるとき、煙草を吸う慎一郎の姿を思い返す。やっぱり君には似合ってないよ。


# 溶 け な い 氷