全てを捨てて歩き出したときには、もはや誰でもない誰かになっていた。黒い衣服は宵闇の中で紛れるが、決して透明になることはできない。
もっと早くこうなっていてもよかった。ポケットの中にある携帯電話の連絡先には登録がひとつしかないが、着信拒否にして削除した。鴗鳥慎一郎という唯一の友人と呼べる人物のそれだった。

『メンソールの煙草を持って 小さな荷物で 楽園に行こう』
ふいに雑踏で流れていたロックバンドの歌詞を思い出す。持っている煙草はメンソールではないけれど、これを歌う彼らは自分よりはるかに自由そうだし、強く激しい音をかき鳴らして何かを叫んでいる。フィギュアスケートでかける音楽以外に興味はなく、ただ耳に残った歌だった。いつか僕らも大人になり老けていき、ふたりだけでいられたのはいつまでだったろう。情を重ねて思うことは少なからずあった。
行く当てもないまま彷徨い、煙草をくゆらせれば彼との思い出ばかりが蘇る。大切にしたかったものはなんだろう。生きている意味はなんだろう。愛を教えてくれた人は誰だったろう。優しいだけでは好きにならなかった。
冷えた夜風が頬を差す。氷上から降りた自分には何を語る資格もない。そこにはなんの価値もないからだ。
幸福を得るであろう男と、世界の頂点に立つ気高き少女。もう言葉はいらないだろう。

僕はどこへでも行ける。目を閉じて歩いていける。皮肉にも歌の通り楽園を目指して。そして煙のように消えていく。高く積み上げた氷山を背にして、雪解けの春を待つ。


# 春 を 待 つ