君の表現は美しいんだ、とまっすぐで嘘偽りのない瞳が告げた。誰より純粋で穏やかな人間の、それでいて芯を持った強い眼差しは、普段の西日のようなやわらかさとは異なり、内側から溢れる感情をぎゅうと押し固めて伝えてきた。
その言葉に、ありがとう、とだけ返した。まるで落とし物を他人に拾ってもらったときと同じトーンで。もうずいぶんと昔の話だ。

彼はいつだって優しかった。例外なく誰にでも優しかった。女を愛し、家庭を築けるくらいには。
「君が日焼けしたところ、見たことがないな」
当たり前か、と鴗鳥は苦笑する。柔らかく笑う、目尻に皺の寄る笑い方は昔から変わらない。
ふいに、慎一郎くんは子供ができてからよく外に出かけるようになったよね、という言葉を飲み込んだ。自分にも理性というものがあったようだ。今まで思ったことを一つ残らず全て伝えてしまってもよかった。彼はそんなことで失望したりしない。醜い嫉妬だと気づかれたところでなんの問題もない。フィギュアスケートをやめない限り、これは約束されていることなんだ。自分の存在価値は、そこにしかないから。
「今年の夏はずいぶんと焼けてしまって困ったよ」
手の甲を見ながら、嬉しそうにしている彼の、鈍感なところすら憎めなかった。

慎一郎くんとは一度だけ海に行ったことがある。
友達と遊ぶという体験が、幼少期からあるべき交友関係を育むという経験が、ほぼゼロに等しかった。小さな頃からスケートをすることだけが、決められた人生だったから。別にそれで構わなかったのに、学生であった彼は一瞬驚いたのち、取り巻く環境や背景にあるものを悟ったのか、次第に寂しげな表情を浮かべていた。
「それなら僕とどこかへ行こう、スケートリンクじゃないところへ」
女性を誘うような口説き文句に、眉を顰める。
「どこに行くんだ」
「うーん……海がいいな」
普段、絶対に行かないところがいい。拒否することもできたのにそうしなかったのは、同情に見せかけた、裏表も打算もないただの情が嬉しかったからかもしれない。

重なったオフの日に、同じくらいの年頃の人間と、電車に乗って出かける。普通の学生とはこういう感じなのだろうか。車窓を眺めては、時折隣にいる人間の様子を観察する。笑みを絶やさない彼の、浮き足だった顔がそこにあった。
「楽しい?」
「うん、すごく」
少年みたいだなと思うが、実際まだ若く成人もしていない。一方で、いい意味で大人びている、悪い意味で感情というものが欠落していると言われたことのある、そんな自分のことを彼はどう思っているのだろう。不思議と、彼の前ではありのままの自分でいられたけれど。
ただ漠然と眺めただけの初夏の海も、波の繰り返す揺れ動きも、靴の裏のざらつく砂浜の感触も、生ぬるい潮風も、屈託のない彼の笑顔も、ただただまぶしいばかりで、頭の中で一生開けない箱の中に入れたつもりだった。
「僕は二度と海には行かないよ」
「光とも? さみしいね」
光とは、吹雪の荒れる割れない海の上で、夜の明けない真っ白な地平線を見続けているから、その必要はないんだ。これは口にしても、きっと伝わらないだろう。
「夜、付き合ってくれるかな」
こんな口実しかないにも関わらず、慎一郎くんは断ることを知らない。いつまで、どこまで、どんなことまで、許されるのか。預けられないのは心だけ。
日に焼けた素肌、白髪に混じる一本の銀色、精悍な顔立ち、懐かしさに滲む情景、変わりゆくもの。変わらないもの。
夜のスケートリンクに二人きり、慎一郎くんと目が合う。優しい瞳は、初めて会った時から変わらない。


# 夜 の 明 け な い 海 の 中 に あ る も の