富、名声が欲しいと人は口にするが、そうなった人間の言葉を実際に聞いたことはあるのだろうか。
その両方を手にしたとき、どんな気持ちだったか。将来的に未来は約束されていて、その目標到達点に達する自信があった。それも物心ついた頃からだ。敷いたレールに対し当たり前に結果を出し、タイトルを獲得していく。フィギュアスケートにおいて自分の名前を知らない人はおらず、ある程度メディアにも出たので有名なアスリートの部類に入るのだろう。預金通帳の残高は興味がなくて目を通したことがない。こうして、富、名声を手にしたところで、決して自分は幸福ではないという事実だけが残った。言葉として多くを語らないのは、背負っているものが異なりすぎるからだ。
あるときは言葉を封じられ、あるときは家から出るなと言われ、あるときは濡れ衣のスキャンダルを消すために金を積む。本当のスキャンダルはもっと別のところにあることを記者たちは知らない。

パリン、と派手な音を立てて、ダイヤモンドのような光を反射させながら鏡の破片が床に散らばった。小さな破片に映るのは、フィナーレから降りて完璧という形の失われた、黒い服を着たしがない男だった。
「触ってはいけないよ」
伸ばした手をまるごと包み込むように握りしめられた。かさつきのない、手入れの行き届いたやわらかな皮膚だ。慎一郎の体温が泣きたくなるほどあたたかくて、一瞬ひるんで動けなくなった。
鴗鳥慎一郎は出会った時から今このときまで、ずっと優しい。穏やかな目をして微笑みかける、それは誰に対しても変わらない。慎一郎は何も聞かず、片付けを始めた。
「慎一郎くんが触るのはいいの」
素手で粉々に割れた破片をビニール袋に入れていくのをぼんやりと眺めていた。そんなことしなくていいのに。
「怪我させたくないからね」
だって他に誰がこの部屋に入るの? と言わんばかりに、テキパキと掃除をしていく。

富、名声、世界一の最高得点。鴗鳥慎一郎という男ならば、その全てを手にしたら今よりも幸福だったろうか? 少なくとも自分よりは大いに喜び、最高の笑顔が見られるだろう。慎一郎に今幸せかと問えば、もちろんと返ってくるのは想像に容易い。そんな彼でも、フィギュアスケートの順位において悔しさがなかったわけではないはずだ。それでも良好な交友関係を続けられたのは、単純に慎一郎の度量と、自分の本当の弱さを晒せたのは彼一人だけだったから。

慎一郎の人差し指には、小さな傷がある。引退の記者会見をしたその日以降、彼は初めて大きな大会で優勝を勝ち取ることができた。そのときに、この家でできた傷だ。同じように割ってしまった破片を拾って怪我をした。その指に血が滲んだ瞬間、心が氷のように冷え切り、一刻も早く見捨てて欲しいと祈り、同時に歓喜の感情が湧き上がったことに心底嫌悪した。王座をどかなくても、怒りを露わにしても、物を壊しても、ひどいことを言っても、鴗鳥慎一郎は怒らない。

どんなに傷をつけても、慎一郎くんは僕を許す。
富、名声、世界一の最高得点。完璧なフィギュアスケーターであることは譲れなかった。それ以外の全てを慎一郎くんにあげられたらよかった。ありとあらゆる選択肢における最善が見つからない。
慎一郎くんは身勝手でわがままな僕を許す。何を言っても何をしても受け止めてしまう。それなら傷つけて、傷つけ続けて、その傷が一生治らなければいい。ずっと隣にいてくれればそれでいい。誰になんと言われようとも。心はますます冷えていくのに、嬉しくて、悲しくて、いよいよ惨めで笑ってしまう。

今日も慎一郎くんは身勝手でわがままな僕を許す。パリンと割れたダイヤモンドのような眩しい光と共につけられた、慎一郎くんの人差し指の傷はまだ消えない。


# ダ イ ヤ モ ン ド と 傷 痕