慎一郎くんから「付き合うことになったんだ」と告げられたときにはすでに周知の事実だったし、おめでとうと返答した覚えがある。慎一郎くんはいずれ結婚し、絵に描いたような素晴らしい家庭を築くのだろう。
人間の枠組みの中に収まっていく二人を見て、毛嫌いしていた「大人」というものに、自分も含めてなっていくんだなという実感だけがあった。あの二人のことを嫌いとは思わないけれど。金メダルを手にしたころから使い切れないほどの財産があったし、年齢を重ねてこれ以上背は伸びたりしないし、これが大人じゃないならなんなのだろうと我ながら思う。

フィギュアスケートをする上で、僕には敵も味方も存在しなかった。常に完璧なプログラム構成を披露し、金メダルを獲得し続けること。自らに課したものはあったが、自分を超えてくる人間はいなかったから。
恐れられ、憧れられ、奇異の目で見られ、神童と拝められ、アイドルのように扱われ、週刊誌に追われ、金の亡者が話を持ちかけてくる。僕にとっては、氷の上にいられることがすべてだった。それしかいらなかったのに、周囲の耳障りな音が鬱陶しくて、いつしか目も耳も口も閉ざすようになった。面倒で好きにさせたこともいくつかあったけれど、経験として役に立つものなのかそうでないのか結局区別がつかなかった。
その一つが、男に抱かれたことだった。どうしてそんなことになったのかよく覚えていないが、機嫌を伺いながら女を抱くよりは気が楽だった。慎一郎くんもエイヴァとそういうことをしているんだろう。どうにもそれが、頭の中で引っかかっていた。自分にはない感情だったから。
その男は自分がアスリートであることを知らなかった。そのほうがかえって好都合だった。柔和な雰囲気や肩幅の広さ、穏やかな声がどことなく慎一郎くんに似ていた。服を脱がしていく丁寧で優しい手つきに嫌悪感はなくて、抵抗しない自分に驚いた。目を瞑って他の人のことを考えてもいいとその男は言った。始終、不思議な気持ちでいたが、体中がおおいに熱をはらんだときに慎一郎くんの笑顔を思い出して、視界に涙が滲んだ。
世界中でたった一人の友人に執着し、人間という生物として慎一郎くんにだけ感情が揺れる。悲しいわけでも苦しいわけでもない。だって慎一郎くんは僕のことが好きだ。よくわかっている。ならどうして。

行為が終わり、あっけないなと感じた。自分には特段必要ないものだと最初はそう思っていた。
氷の上でしか生きられないから、今日も自傷行為のように氷の表面に傷をつけ続ける。小さな箱庭の中でカーブを描きながら何度だって飛ぶ。着氷のたびにヒビが入り、闇雲に滑れば白い飛沫を上げて氷は削られていく。いつしかピアノの美しい伴奏が終わっても、頭に降りてくる表現を止めずに。ここで手足が止まれば呼吸が止まってしまう、そんな気がしてならなかった。こうして慎一郎くんを自分の世界に呼ぶことでしか、繋ぎ止められなかったんだ。
誰かに抱かれて涙がこぼれた理由が今もわからない。この感情の名前を、慎一郎くんに教えてほしかったな。一生問うことのないその答えは大体予想がついていて、でもあまりに惨めで後ろめたいからうまく認められない。それでもここに立ち続けていないと、生きる資格がもうないんだ。

このスケートリンクがもし北極の海氷だとしたら、今すぐ激しい音を立てて海面が割れて、そのまま溺れ死ぬのがいい。夜が来て、目を瞑ってまた知らない誰かに抱かれるとき、そんな想像をした。


# 北 極 の 夜