光のコーチが夜鷹純ではなくなったと聞かされたのは、全日本ジュニア大会が終わって数日経った頃だった。俺ばかり蚊帳の外で本当に嫌になる。
夕飯の途中にも関わらず、父親の携帯と財布を勝手に持ち出し勢いよく家を飛び出して夜の住宅街を駆け抜けた。走りながら片手で携帯をいじって通話ボタンを押す。ロックなんて簡単に解除できた。なぜならそれは母親の誕生日に設定されているからだ。
氷の上じゃないから流れる景色の遅さにイライラする。前へ前へと蹴る足の靴底が擦り切れそうだ、息が切れてきた、早く出ろ、早く出ろ、今すぐに応答しないとぶっ殺す。鳴り響いていた着信音がやっと無音に変わった。
「おいクソジジイ今どこにいる」
世界一苛立った声で夕闇に染まりかけている空に向かって叫ぶ。
「切るよ」
淡々と答える夜鷹は何一つ変わった様子はない。いつだってそうだ、俺の言葉があいつの心を動かしたことは一度だってない。
「答えろよ、光を泣かせんな」
動かす手足が風を切る。沈みかけた夕日のオレンジが目にしみて胸が張り裂けそうだ。ありとあらゆる感情がごちゃまぜになる。こっちは本気だってのに余裕かよ。
「君には関係ない」
「いーやあるね。いいからどこ? 東京?」
質問攻めにしていたら、電話先からなんと名鉄のアナウンスが聞こえてきた。
「嘘だろ、名古屋にいるのかよ。そのへん座っとけボケカス」
電話を繋いでおくよりも探した方が早いと判断した。あいつも気が長い方ではないが、子供が一人、それも大切な友人の息子が無断で携帯を使って会いにきていると考えると無視はできないだろう。俺が大事なんじゃない、俺の父親が大事なだけで。
全力疾走で駅まで着いたら閉まりかけたホームのドアに大急ぎで滑り込む。本当はやってはいけないが緊急事態だから仕方ない。窓から見える景色は日没を過ぎ薄暗く、夜が近づいてきていた。

「何の用?」
駅のホームのベンチに腰掛ける夜鷹は物憂げな顔をしてため息をついた。今日も全身真っ黒な服で、まるでカラスみたいだ。
「勝ち逃げすんな」
「なんのこと」
困惑の表情がそこにあって、俺の言っていることが本当に理解できないようだった。
「光にまで、ひどいことすんな」
「当人同士の問題だよ」
夜鷹は足を組み直す。黒い革靴のエナメルには傷ひとつなく、たったそれだけで様になってしまう。手足の長くすらっとした細身の体で滑る演技は、どれだけ多くの人を魅了してきたのだろう。物心ついた頃から夜鷹純という存在は大きく、映像を見てもなおその実力を認めざるを得なかった。父親は銀メダルで、夜鷹純は毎回金メダル。父親のことを誇りに思っているが、息子の自分ですら歯がゆい気持ちを押し殺しているのに、同じ時を生きたからと笑みを浮かべる当人はどれだけ悔しかったろう。あんたさえ、あんたさえいなければ父さんは金メダルだったのに!
「父さんと光を何回も傷つけたのはテメエだろ!」
大声で叫ぶと感情が昂って目に涙が滲む。握り込めた手のひらが震えて止まらない。全身黒い服を着た男と少年が喧嘩していると駅のホームにいた人々がざわつき始め、ギャラリーが増えてしまった。
「行くよ」
スタスタと歩き始める夜鷹の背中を追う。シルエットを見るに少し痩せた気がして違和感を覚えた。子供を連れ歩くのに一度も後ろを振り向かないこの男のどこがいいんだよ、光。

夜も遅い公園には人っ子一人いない。街灯近くのベンチを見つけて並んで座った。外の冷えた空気が頬を撫でて、枯れ葉の擦れる音がする。古びた手すりのざらつきに触れて心を落ち着けようとした。話を切り出したのは俺だった。
「あんたはずっとそうだ、考えなしに俺の周りの人たちを傷つける。いい加減にしろよ。俺の家族は幸せだったんだ、お前さえいなければ」
溜めに溜めた言葉が溢れ出す。本心を吐き出してせいせいしたが、罪悪感が喉奥からじわりじわりと迫り来る。
悔しくてたまらなくて奥歯を噛み締めた。たった一人で戦うしかなくて味方なんて誰もいなくて、それでも誰も悪くないなんて絶対に言わせない。隣にいる夜鷹の横顔は街灯の影に隠れてよく読み取れない。
少し間があって、ははっと声が上がった。顔をくしゃっとさせて嘲笑しているようにも見えた。
「それはそうだろうね。でも僕に何ができる?」
意外にもからっとした声色で夜鷹はそう言った。
終わったことは仕方がないし変えることもできない。夜鷹純という存在をこの世界から消すこともできない。叶うならできる限りの力で夜鷹を傷つけたかった。でも、暴力はふるいたくなかった。
ふいに両耳の耳たぶが外気によって冷えていることに気がつく。スケートリンクにいることが多く慣れてしまったが、ピアスをしているからだった。
「……ピアスってさ、開けるとき痛いんだよ。あんたしてないだろ? ひとつくらい俺にやらせてよ」
立ち上がって正面に立つと、夜鷹のすました顔を見下ろす。このまま一生俺の下にいて欲しいし、一刻も早く背が伸びて欲しい。目力の強さは光より獰猛で、ライオンのように美しかった。吸い込まれそうな金色に負けないように、強引に手を取り引っ張った。
歩き出すと夜鷹は何も言わずについてくる。大きな手のひらは節張っていて、かさついているし冷えているしで父親の温かな手のひらとはまるで違った。

賑やかな大通りを抜けて二つ目の角を曲がる。言葉を一つも交わさずに歩き続け、触れた手の熱が伝わって同じくらいの温度になり始めた頃だった。
オリンピック金メダリストにはとても相応しくない黒と黄色の派手な外観の店の前に立つ。自動ドアが開き、耳障りな店内の音が洪水のように押し寄せる。そこは雑多なものが売られているディスカウントストアだった。不良が出入りしているから行ってはいけないと父親から注意されていたっけ。そんなところに夜鷹純といるなんて誰が信じるだろうか。趣味の悪い芳香剤の甘い匂いがする、ごちゃごちゃした店内を練り歩きピアスのコーナーを発見する。
「何色がいい?」
夜鷹は無言のまま、怪訝そうに売り場を見渡していた。早く出たいと顔が言っている。
「金にしとけば、あんたには結局それがお似合いだよ。はい、買ってきて」
あの夜鷹純に対して言い放つ。こんなの優越感しかない。銀にしなかったのはお揃いになってしまうからもあったが、黒か金しかイメージがなかった。


公園に戻ると時間は大丈夫なのかと聞かれた。
携帯を見やれば着信の履歴がびっしり埋まっていた。絶対心配するに決まってるので、マナーモードにしたんだった。
「あんたのほうにもかかってきてるんじゃないの」
「充電がない」
「愚か者め」
そういうところが俺の父親の放っておけない理由なんじゃないの。言わないけどさ。持たせていたビニール袋からがさごそとピアッサーを取り出して説明書をよく見る。
少しでも、傷つけてやりたかった。傷として残ればいいとも思った。こんなことしたって何にもならないとわかっているのにね。

ガシャン、と音を立てて撃ち抜いた針は夜鷹のやわらかな耳たぶをきれいに貫通した。
瞬間、びくともしない夜鷹に腹が立った。キャッチをつけてやると涼しげな顔がより近くにあって、漆黒のまつげが長く透き通るような肌と、喉仏、男らしい肩の骨格が目に入る。いつか勝てるくらいになりたい。
「早く大人になりたい、そしたらあんたともやりあえるのに」
夜鷹は右の耳たぶをさわりながら、なんだか不思議そうにしていた。
「大人になるのもいいけど」
さっと置いていた携帯を奪われ、すぐさま電話をかけられる。当たり前のようにロックの暗証番号も知られていて、また嫌な気持ちになる。
「君はまだ子供だからね。満足した?」
これみよがしに歩き出し、遠くで何やら話し込んでいる。真っ黒の大きなカラスは鷹なんかじゃないし、夜に紛れてもどこにいるかすぐにわかる。さっき金の目印をつけたから。
「慎一郎くんが迎えに来るって」
そりゃそうでしょうねと自分のしたことをこっぴどく叱られるのを承知の上で、あんたに会いに来たんだ。俺がどんな気持ちでいると思う? なあ、一生わからないだろ、わかられたらそのときこそお終いだ。
「なあ、痛かった?」
顔が皮肉に歪んでいくのがわかる。せめてもの報いをくれよ。
「ああ」
顔色一つ変えずに夜鷹は言う。
それならいいんだ。一つでも傷を残せたんならそれでいい。全部全部許せないけど、当事者じゃないことが一番つらいんだ。

「理凰、何をしているんだ」
慌てて駆け寄ってくる父親の必死な表情に、親不孝を思う。俺は光みたいにいい子じゃないけど、こいつだって大概いいやつじゃない。
夜鷹は静かにその場を立ち去った。翻した背中は痩せ細った獣のようでなんだか夜鷹純らしくない。俺が打ちのめす前に弱るんじゃねえよ。そのまま暗闇に消えていくのを睨みつけながら、心配を十か百くらい口にする父親に対し適当に相槌を打つ。
──ファーストピアスだったな。あといくつあの男には初めてがあるのかな。追いつきたいと思っているうちに、あいつはいなくなる気がした。
世の中にはタイミングってものがある。父さんにも母さんにも光にもあった。それすら俺は与えられない。ほんとやなやつ。


# 右 耳 の ピ ア ス