Heartbeat


性格は、何を考えているかわからないとよく言われる。ぼんやりしていることが多く、家庭環境もあってかあまり物を欲しがらない子供だった。高校を卒業したら働き、平凡な人生を送るんだろうなくらいのことしか考えていなかった。
車の運転も最初は仕事の手伝いであったため、あまり好きではなかった。運転技術が上達していたのは無意識で、父親がそう仕向けていたかもしれないが、商品である豆腐を崩さないという理由だけで、それが自分の人生の転機となるとは思ってもみなかった。ドリフトができることも、秋名の峠をいかに早く走って帰れるかをやっていただけなのに過剰なまでに驚かれ、また賞賛された。嬉しいとか楽しいという感情は後になってついてきた。
初めて恋愛という感情を知ったのは茂木が初めてで、胸が高鳴る時もあれば、潮の満ち引きみたいに繊細で淡い気持ちがそこにあった。色々なことがあったけれど、茂木のことが本気で好きだった。嘘ひとつないまじりけのない気持ちで、あの日あの時、電車で別れた瞬間それらを置いてきた。
尊敬と憧れを抱いたのは涼介さん、自分と違う目線と、負けたくないという感情をより強く思わせてくれたのは啓介さんだ。この二人については一緒にいなくても心のどこかにいる存在であったし、離れていても、歳月が経ってもなおどこかの節目で連絡を取ることになる。あの二人に才能をみそめられたその日から、峠のダウンヒルを下り切ってもまだ、人生は続いていく。

#プロローグ


パンダトレノ様へ、とメッセージカードに書かれて届いたそれは、豆腐屋である自宅には不相応だった。高橋涼介からの果たし状であることも最初はわからなかったくらいだ。明らかに高級な花束は女性に贈られているイメージしかないし、縁のない代物だった。店長にもらってくださいよ、と頼み込んだがお前のものだと断られてしまった。家に持ち帰ったところで花束なぞもらったことがなく、おまけに花瓶もない。
困り果ててコップで代用したが、古くて狭いこの部屋には到底合わず、華やかに咲き誇る赤の、そこだけ世界が違う。薔薇というと風呂に浮かべるイメージもあるけれど、そんなものに入る勇気もない。
祝い事でもないのに花束をもらうことについてはただただ困惑したが、走り屋にしてはキザな人というか、本来そういうものとは無縁な人物なのだろう。不思議な巡り合わせだった。
薔薇の花が色褪せていく色とともに、約束の日が近づいてはひらりと花弁が落ちる。
なんて不釣り合いな部屋の、豪華な花。

#ばらの花


藤原拓海から、かすかにガソリンの匂いがした。嗅ぎ慣れたこの匂いが、彼の髪、または衣類から発されているというのは、少し不思議な感じがする。
ガソリンスタンドでアルバイトをしているのは、初めて彼の存在を知った時からわかっていたのに、いざ彼と直面したときにはベビーフェイスと言われるだけあるうぶな若い青年で、年齢を聞けば高校生だという。実家は豆腐屋で毎日配達をしているというが、ドライバーテクニックがその生い立ちだけによるものかと言われれば、決してそうではないだろう。豆腐屋の息子が配達の車で峠を走っているだけなのだ。出会った当初は才能の自覚すらなかった。そのギャップが周囲にとって魅力的に映り、何より本人にミーハーな気持ちはなく、車について聞けば用途としての走る機械そのものだと言う。極めて本質的な回答だが、あれだけ秋名の峠を知り尽くしておいて、それでは話の辻褄が合わないだろう。彼は揺るぎない信念を持つ、意外にも熱い男だった。
バトルに勝利した藤原拓海に、よくやったなと労いの言葉をかける。照れ屋なのか褒めただけで顔を赤くして、はにかんだ口元が見受けられる。毎回のことだった。遠征の際に様子を見れば、ぼうっとしていることが多い。何を考えているのかわからないし、掴みどころのない男だ。啓介とはタイプが全く違うので、面白い。
できる限りのスキルを、この男に与えたい。成長していく様を見届けたい。いつか自分を超え、新たなステージに行くところを見てみたい。
藤原拓海の頭を撫で、髪を梳きながら耳元に顔を寄せる。ガソリンと混じって、やわらかな石鹸の香りがする。初めて会ったときからそれはずっと変わらない。
「どうしたんですか」
動揺した彼は耳まで赤く染めて、その場で固まっている。あのとき花束にした薔薇のような色をして。こんなに純真で、誰にも汚されない彼の心。
「なんでもないんだ、すまない」
遠い先の未来で、抱きしめたい。ありったけの期待を寄せて、こんなことを思う日が来るとは思わなかった。全てを言葉にしてしまうには、時が早過ぎる。そうして彼とは言葉よりも、走ったほうが確実に伝わるのだろう。
藤原拓海という一人の人間がそばにいる。ただそれだけのことが、嬉しい。登りゆく朝日の光が彼の瞳に刺して、反射する。きれいだな、と思う。
ガソリンの香りが冬の空気と混じって、消えていく。名残惜しく思いながら、目の前の男を目に焼き付けた。

#豆腐屋の息子


走り屋に女はいらないと以前から散々言われ、それとこれとは別だろうと思っているし、実際に信頼を寄せ合えるような女性と出会い、頻繁には会えていないが連絡を取り合っていることは事実だった。プロジェクトDに参加してからはますます目まぐるしい毎日を送っている。走り屋といえど涼介さんは特別で、プロジェクトを立ち上げメインレーサーを育成することに力を入れているし、品格の差があることも相まって、走り屋という名前を背負うにはあまり似合っていないような気がする。
遠征先でファミレスでご飯を食べて、少し時間が空いたときだった。夜も遅く窓ガラスに二人きりで向き合って座る姿が反射する。涼介さんって彼女いるのかな。不意にそんな疑問がわいた。
「涼介さんは、付き合ってる人っていますか」
ポンと口から飛び出た言葉に自分でも驚いた。
いて当然な気もするし、でもこれだけ同じ時間を過ごしていて、医大のレポートも忙しそうだし、女にかまけている暇なんかあるのかな。涼介は意外な問いかけに聞き間違いかと目線を拓海に向けて静止した。
「突然変なこと聞いてすみません。無理に答えなくても大丈夫です」
驚かせてしまったと慌てて取り繕うけれど、この人の前ではそんなことはまるで無意味だ。一の字に固く締まった口元が開く。
「……今は、いないな」
翳りのあるまなざしが哀しさを思わせて、ゆっくり瞬くと美しい睫毛の影が落ちる。つくづく色気のある人だなと思う。
「そうですか」
口下手なのもあるが、涼介さんと対峙するとより口数が少なくなってしまう。目上の人と認識しているからというよりは緊張しているのと、尊敬の念が強すぎてプライベートまで踏み込めないのが実情だった。
「藤原はどうなんだ?」
まさか聞き返されるとは思っていなくて、この人の考えはいつも読めない。
「俺もいないですけど……」
恥ずかしくなってしまい指で鼻を擦る。なんならこの先の答えは言わなくても知られている気がする。
「けどなんだ?」
涼介はいつにもなく意地悪な笑みを浮かべている。
「好きな子は、います」
語尾がどんどん小さくなり、まごついているとくすりと笑われてしまった。
「恋愛とかよくわからないですけど、あっちも俺のことを好き……なんだと思います」
言葉にすることの難しさを痛感する。涼介さんとはバトルを通じて心が通うような気がしていて、あの瞬間だけは言葉なんていらないのに。
「そうか」
よかったなと穏やかな目で見守られるこの感じ。からかうわけでもないのがスマートで気高さを感じる理由だ。こんなにも完璧な人を兄に持つってどんな感じなんだろう。想像もつかない。
「啓介さんとそういう話はしますか? 俺、兄弟いないから」
「啓介と恋愛の話? しないな。しないけどわかるさ。好きになるタイプは違うが、恋愛観は似てるかもしれないな」
兄弟だからといってなんでも話すわけではないのが意外だったが、考えてもみれば当たり前か。
「へー、やっぱり兄弟なんですね」
どんな人がタイプなんですかと聞きたかったけれど、これ以上は聞けなかった。
「藤原は、どういう子が好きなんだ? 参考までに聞けせてくれ」
涼介さんはなんでもデータを収集しようとする。
「えっ、そんなこと聞かれても困りますよ。好みのタイプとか、ないですよ」
慌てふためく拓海に、涼介はまた軽快に笑った。クールかと思えば情熱的で、笑みを溢すことも少なくない。チャーミングなところも持ち合わせているギャップは、親しくならないとわからないだろう。
「藤原はいつも未知数だからな。どの側面から見ても変わっているよ」
涼介は時間が経って冷めてしまったホットコーヒーに口をつける。何をしても様になるのはどうしてなのか。
「でも、涼介さんといると緊張なのかな、胸がドキドキして、なんだか変な気持ちになるんです。自分で言っててよくわからないんですけど……」
カップがソーサーに置かれてカシャンと大袈裟に音を立てた。涼介は真面目な顔を崩さず、数秒で長考したようだった。
「今のは告白か?」
すっと差し出された指が顎に触れる。ゆっくりと顔を近づけてくる涼介に、拓海は動けない。ぎゅっと目を瞑ったところで指は離れていく。
「冗談だ、からかってすまない」
「いえ、そんな」
拓海は頬をりんごのように赤く染めて、高鳴る心臓と動揺を収めようとしていた。安堵するように大きく息を吐く。
個人的には、俺以外にそんな顔をしないでほしいが——自分でもどんな顔をしているのかわかってないところが、藤原のいいところなんだろう、ぼそりと涼介は呟く。
「何か言いましたか?」
「いや、そろそろ戻ろう」
会計表をさっと持ち歩いていく涼介に、拓海は慌ててその背中を追う。いつまでも追いかけていたい背中が目の前にあって、それでいてその隣に並びたいとも思う。あの人の見えているものはなんなのだろう。いつか同じ景色が見れたらいい。言葉にしなくても、それは伝わっている気がした。

#気になるあの子


「兄貴と恋愛の話をした?」
地雷じゃねえか、それ、と啓介は思うだけ思って口にしなかった。帰りが遅かったため何かあったのかと問われたのだった。啓介はやれやれと和室に敷かれた布団にごろんと寝転がる。
エースパイロットだけ宿泊の部屋を使わせてもらって、すでに旅館に備え付けてあった浴衣に二人とも着替えていた。
「好きなタイプの話をしたような、結局なんの話をしたのかわからなかったです」
拓海は布団の上であぐらをかいて少し困ったようにすぐ隣にいる啓介を見やる。このようなたわいもない会話についていけないことはよくあって、実際には拓海にとって支障のないことだった。今回もそうだ。プロジェクトDの話というわけではなければ問題はない。
「啓介さんは彼女いるんですか?」
自分ばかりでは癪なので、せっかくの機会に尋ねてみる。昔は遊んでいたと聞くけれど、会った時からはずっと真面目で熱い人だという認識しかない。
「いねーよ、少なくともプロジェクトDに入ってる間は作らない」
両手で腕を組んで頭の後ろに回すと、天井を見上げながら真剣な顔つきでそう言った。
「なんでです?」
「簡単に言うと、集中できねーから」
彼らしいなと拓海は思いながら、しかしこの人の過去を周りから聞く限り、今までのことをすっぱりやめてレッドサンズやプロジェクトDの活動に専念している。そうまでさせるものがそこにあって、それを自分と共有できることが嬉しい。
「そうなんですね」
「お前は?」
物怖じしないまっすぐな瞳は兄である涼介の放つそれとよく似ていた。たくさんの光を取り込む大きな瞳。違うのはややつり目なところで、猫科の動物のような、それは近所の猫のように可愛らしくもありサバンナにいるしなやかに獲物を狩るチーターをも彷彿とさせた。
「そうですね、気になってる子はいて、距離感がちょうどいいです。お互い忙しいので逆にバランスが取れてるのかもしれません」
淡々と拓海が答えると、圭介はあっけに取られて少しの間、言葉を失った。
「そんな大人な回答が返ってくるとは思わなかった」
まじか、と啓介は寝返りを打ち、うつ伏せになって頬杖をついた。
「俺のことなんだと思ってるんですか」
「仲間だし、ライバルだとも思ってる。でも自分のことには一番興味なさそう」
啓介は拗ねた様子で、携帯で時間を確認した。そろそろ就寝しないといけない時刻だったが、にっと悪い顔をして啓介は拓海のほうを向いた。
「で、写真ねーの?」
「誰のですか?」
「女だよ」

#彼女の話


で、結局あの時見せてもらえなかったからちょっと気になって。
専用のサポートカーで休憩したところに、写真を見せろとせびってくるのは同じチームである啓介だった。先輩にもあたるのであまり不躾な対応をしたくもない。あの日はなんとかかわしたのにな、と拓海は困った顔を隠すことができずにいた。正直者なのだ。
「見せてもいいですけど、人に言わないでくださいね」
素直に携帯の写真を見せると、啓介はやや驚いたのかきつねを思わせるようなつり目を見開いた。
「へー、硬派だな」
まるで品定めされているようで、だから避けたかったのにと思う。昔からその手の話題は苦手で、猥談も含めて何が面白いのかわからない。
「……もしかしてその女、プロゴルファー?」
見事に当ててきた啓介は至って真面目な顔つきのまま、拓海の顔を見つめてきた。好奇心をくすぐってしまうと止まらないタイプだ。
「そうみたいです」
「ずいぶんドライだな。でもそれがいいのかもな」
他人行儀な拓海の返答に意外性を啓介は思ったが、瞬時にそういう細かな部分をみているわけではないのだろうと察した。
もっと別の写真自慢しろよ、と無茶振りをされてしまい、
仕方がなく携帯をスクロールしていたら、いつのまにか画面を盗み見ている啓介がいた。
「あ!違う女がいるじゃねーか!しかも可愛い系の」
写真を撮ることが少ない拓海の、写真フォルダにあるいくつかの写真。消去しようか迷って、普段から見返したりしないのでそのままにしていた。思い出はあくまで過去で、今とは切り離されている。彼女に消せと言われたらそうするだろうけれど、してもしなくても変わらないのになとは思ってしまうだろう。
「別れたんすよ。あっちは東京の専門学校で、俺は就職だったから」
あの日の電車の冬景色を思い出して、拓海はぐっと奥歯を噛み締めた。お互いやるべきことが別にあって、別れたかったわけでは決してなくて、運命とは総じてそういうものなのだと痛感する。
「ふーん、藤原って意外と女たらしなんだな」
「そんなことないです、初めて付き合ったのはさっきの子ですし。啓介さんこそ昔はすごかったって……」
口にしてはならないことを本人を目の前にして言ってしまった。時すでに遅し、拓海は動揺も隠せずにいた。どこまでも素直で嘘がつけない男。
「あまり触れられたくない話題だったらすみません」
自分に絶対的な非があると感じたことに対して素直に謝るところは自分とよく似ているなと啓介は思う。涼介は何事に対してもスマートに物事を解決するが、啓介は全てがそうというわけではなかった。喧嘩する必要があればするタイプだからだ。
「別に気にしなくていいぜ、確かに昔は遊んでたな。でも途中から一人の女になった。まあ今は必要ないから、俺には関係のない話だけどな」
「そうですか」
ほっと一息つくと、拓海はやっと携帯を閉じる。
「かっこいいとか言えよ」
「かっこいいです」
抑揚のないイントネーションに、啓介は大袈裟にため息をつく。
「はあ〜っ、ほんと藤原はつまんねーな」
「すみません」
「謝るなよ、そのままでいろお前はもう……」
「はい」
呆れた顔をしながらも、こんな奴があれほどの才能を持っていて、車に乗るとまるで人が変わるんだからやってらねーぜ、と啓介はひとりごちた。
#つまらない男
「啓介さんってよく見ると涼介さんに似てますね」
ひょこっと覗き込んでくる拓海は稀に年相応のことをしてくるので心臓に悪い。まだ成人もしていないこの男は出会った時から大人びていたが、素朴な純粋さや、笑うと可愛いところがかなりのギャップだ。覗き込まれて澄んだ目と目が合う。
「中身も顔も系統が違うと言われる割には、身内にこそ似てるってよく言われるぜ」
最近はますます似ていると言われることが多くなった。涼介が車の楽しさを教えて以来、啓介の素行は落ち着き、真面目に学校にも行くようになったためだ。
「二人とも美形ですもんね、初めて会った時からオーラが違うなって思ってました」
パチパチと瞬きをしながら拓海はまじまじと啓介の顔を観察している。
「藤原も大概自覚すべきだと思うぜ」
オーラなんて、最初からお前が一番持ってたよ。それが今はどうだ。
「何がですか?」
ほわんとした柔らかな雰囲気で、問うてくる。拓海は一度懐けば子犬のように順従だ。
「そういうところだよ」
軽く足で小突くと、いたい、とふやけた声がする。ははっと軽快に笑う啓介は、不意に笑った時の涼介の顔とよく似ていた。

#きれいな顔


「藤原ってさ、普段は無防備というか、ぼーっとしてて何考えてんだかわかんねーし」
人もまばらなファミリーレストランで、啓介はアイスグラスに刺さったストローをくるくると回しながら唐突にぼやいた。
「こんなに長い時間一緒にいても、あいつのことよくわかんねーよ。兄貴ならわかるのか?」
夜が映る窓には水滴がぽつりぽつりと打ち付けられていて、ゆっくりと落ちていく。
「藤原か、不思議なやつだよな」
落ち着いたトーンで涼介は口にする。出会いを思い返せばもう遠く、そのくらいには絆も深まっていた。
「普段もそうだが、走りも未知数で見ていて飽きないし、藤原にはいつも驚かされるよ」
本人の性格と走りが合致しないのは、初めて会ったときからそうだった。負けず嫌いで頑固なところは多少合っているかもしれないが、もっと根幹的な部分で分析しきれないところがある。
「兄貴でそうならお手上げだ」
啓介はやれやれと肩をすくめて、グラスに入ったアイスコーヒーを飲み干した。カラン、と氷が涼しげな音を立てる。
「深く考えなくていいんじゃないか、俺にとって研究対象としては非常に興味深いところだ」
涼介はふっと笑って、それはどこか満足げな表情だった。簡単に攻略できたら面白みがないとでも言いたげだ。
「出たよデータが……」
ぼそりと啓介は呟いて、意味もなくストローを回す。グラスの中にあるのは溶けない氷だけ。
「何か言ったか?」
「いいえ、なーんにも」
小さくため息をつくが、結局のところ藤原拓海という存在にしてやられているのだ。
「ほんっと、狂わす方も、狂わされる方も、全員狂ってらぁ」

#あなたもね


「本当に時間通りなんですね」
青年のきれいな声が耳元まで降りてくるコンマ数秒前に、涼介は目を開けた。同時と言って差し支えない秒数だ。そこには珍しく拓海がおり、あまり見慣れない光景に涼介は内心驚いていたが、顔に出すことはなかった。
「気になって来てみました。起こしませんでしたか?」
拓海は涼介の仮眠するサポートカーに潜入し、10分ほど前から涼介の顔を見つめていた。まつ毛の美しさも、通った鼻筋も、唇の厚みも、さらりとした髪の色艶も、見ていて飽きなかった。というよりも、無防備な姿を長らく見ているという状況自体がまるで夢みたいで、こちらまで夢を見ているような感覚に陥ってしまう。
「ああ、起きなかった」
涼介は仮眠を取る際は一度熟睡し、寝ぼけることもなく機械のように再び目覚める。車においてもそうだけれど、体内時計が規則正しく機能しており、自然とそういうことができるのだった。
「さっき涼介さんを起こそうと思って、頬をつねってみたりしたんですよ」
ふふ、と拓海はやわらかく笑って、からかってみせる。本当はその顔の美しさに見惚れて何もできなかったなんて言えやしない。
「そうなのか?」
涼介は体を起こし、呼吸を正すと意外そうに拓海を見た。
「嘘です。でも、腕が落ちそうになっていたので戻しました」
それは本当だった。車に乗り込んだ時にすでに涼介の腕はだらりとシートから落ちていたから。
「そうか」
「涼介さんの手ってきれいですよね」
拓海はつい自分の手のひらと比べて、その大きさ、少し骨ばった節、爪の形まで美しいことを思う。あの手が背中を押す時、どれだけ心強い気持ちになれるか、だとか。
「大人の手っていうか、それだけじゃないですけど、医者になってメスを取ることがあったら魚もきれいに捌けそう」
ふざけているわけではなく至って真面目に拓海はそんなことを口にする。
「外科志望ではないが、医学をなんだと思ってるんだ」
「はは、すみません」
でも、この手に憧れているのは本当なので、と付け加えると、涼介も悪い気はしない。少しくすぐったい気はするけれど。涼介は拓海のことを可愛いと正直に言ってしまうには違うし、変な意味合いを持っているわけでもない。
頭に手を置き、ぐしゃぐしゃと藤原の髪を撫ぜた。やわらかくて、毛並みのいい犬のようだ。
「なにするんですか、やめてくださいよ」
抗議の割にはあまり嫌がっているように見えない。
いつだったか啓介にもしたことがあるなと思い返して、涼介は微笑んだ。

#可愛い教え子


焼いた秋刀魚を箸でつつきながら考える。この魚はかつて海を泳いでいたのに、今この瞬間俺に食べられる運命だったんだなと。死んだ魚と目が合う。お前は海で暮らしていたんだよな。
近くに湖はあれど、海に行ったことは数えるほどしかない。
あまり行きたいとも思わないが、以前付き合っていた彼女に海が見たいと言われ、自分はどこかに行きたいと思ったことがなかったなと、無頓着さを思うのだった。
父親はいつも通り俺の作った夕飯を食べ、そこにおいしいもまずいもなく、何も言わずに自分の皿を片付ける。父親から、文句の出ないことが俺にとって正解だった。
グリル、洗わなきゃな。洗車の方がよほど楽になってしまった手で、なんとなくそれっぽい料理を作り、父親と食卓を並べ、生活している。特に不満はない。細かな文句はあるけれど。
そんな生活がずっと続くと思っていたし、自分が憧れられるような存在になるなんて、彼らに出会うまでは思いもしなかった。
目の前の秋刀魚が漁師の網にかかったのなら、俺が涼介さんと啓介さんに出会ってしまったことと同義だ。いつからだろう、車に対する気持ちが変わっていって、それすら日常になり始めたのは。
火がついても真っ黒焦げになるなよ、俺、と自分にエールを送る。死んだ魚がぎょろりと俺を見つめていた。
#秋の魚
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見ていて飽きない。一言で表すならば。
見通せることもあれば、想定を超えてくることもある。その裏切りとも呼べるような斬新なアイディアや技術、革命のようなドライビングセンスはいつだって涼介の胸を高まらせ、行き着く未来の先を想像させた。
初めて出会ったときからそんな予感があった。期待の先には、毎回裏切られないものが提示される。
今から未来が楽しみで仕方がないし、自分では描けなかったものが彼を通して見ることができるだろう。否、彼にしか成し得ないことがそこにあるだろう。想像を遥かに超えて、誰にも届かないところまでいく。そんな確信があった。
今はプロジェクトとして共に動いているけれど、ここで収まる器ではないだろう。このプロジェクトが達成されたとき、公道最速理論は打ち破られ、もはやレコード更新も意味を成さず、ストップウォッチを切ることもなくなる。そのくらいの存在になるという見当が、ついていた。
自分の未来は生まれた瞬間から決まっていた。それを覆そうとは思わないし後悔もない。自分にはその才能がなかった、ただそれだけの話だ。
地の果てまで、海と空の混じらない地平線の先まで、行くといい。藤原ならできると、そうずっと信じている。

#本当の最速理論


13歳で父親に鍵を渡され車のエンジンをかけ、アクセルを踏んだ瞬間から全ては始まっていたんだ。
運命なんて言葉はありきたりで現実味がないが、自分を見出してくれた二人については自分の人生を決定的に変えられてしまった。
最後に選んだのは自分だった。この人たちとならなんだってできる。己を信じられる自分がそこにいれば、どこへでも行ける。
車はいつだって自分の行ったことのない世界に連れて行ってくれる。世界最速記録の397.36キロメートルの時速を超えて、そのスピードの重力で押しつぶされる日が来たとしても。道が続くなら、俺はどこまでも行くだろう。その選択に後悔はないんだ、生きても、死んでも。そのときは俺じゃない誰かが俺を超えるだろう。漠然とそんな直感があるから、自由でいられる。今だけが俺の全てで、求めるものもそこにしかない。
誰にも止められない、そのスピードの先に俺は行く。

#そのスピードで