ひとつの箱が届いた。自身が頼んだものに違いないそれは本当かどうか疑惑があり、はたまた妄想ではないか、そんな違和感すらあった。
床に転がっているのは雑誌と紙の束。資料か趣味かまた別か。素足で避けながら台所に行き、茶を沸かす。
湯呑みに口をつければ空っぽの胃があったまっていく。一口、二口とじんわりほぐされていく感覚を思いながら、どうしてそれを購入したかを反芻する。


人生は決まってくるくる回る、だから彼にディビジョンに入らないかと誘われても、唐突に呼び出されても、つい足が動いてしまうのも全て万有引力のせいなのだと自分の中の代弁者が主張する。ニュートンを証明できるのは誰か。そんなことを考えながらたどり着くアトリエはだいたい夜で、アシスタントもおらず彼一人が机に向かっているか、布の端切れを見ているか、完成した服を誇らしげに自慢してくるかだった。
それに気がついたのはいつ頃だっただろう、思い出せないくらい随分前のことだった。彼の仕事中に漂う、清潔感のありながら、それでいてオリエンタルな香り。嬉しいことがあると体全部を使って飛びつかれることがあるが、首筋の匂いに汗が少し混じっていて、なんて官能的だと思いながら口先でははいはいとすぐ横に流れている川に流す、嘘っぽく嘘っぽく貼り付けた笑顔で全てを流す、そんなことしかできないでいた。
彼は何種類もの香水をパターンで使い分けていて、気まぐれで時々違うものもつけているようだった。彼の部屋に行ったときに見た、並んでいる香水瓶のいくつか。あまり種類は多くなかった。パフォーマンスとして使っているものもあれば、全く減っていないものもあった。それはきっと忘れられない人からの贈り物なんだろうと予想している。

そしてまたいつもの夜が来る。ふいに彼から連絡があるだけで、本当は心の奥底で喜びを感じている自分がいる。期待をしているわけではないし、そもそも何の期待なのかもわからない、なのになぜ。原因を突き止められないまま教えられた番号でオートロックを開け、部屋に入った。
「何その格好、さむそー!」
ドアを開けるなり乱数はそう言い放ち、エアコンの設定温度をガンガンに上げた後、ブランケットを渡してくれた。ぼうっとしていたら上着を忘れてきてしまったのだ。もう秋なのに。
「よお」
帝統はもこもこの赤や黄などの原色が混じったルームウェアを着せられており、髪がさらさらで薄汚れていない状態から察するに、風呂に入れる代わりに実験台になったのだなと理解する。
「なんですかその格好」
乱数は乱数でゆるい白のカットソーにラフなパンツを着ていて、双方のギャップがひどい。
「いーでしょ、新作なんだぁ。もっとギラギラさせたかったな〜」
「寝巻きで派手な配色はどうかと思いますね」
「もー!幻太郎センスない!ねえ、帝統」
「ん〜?あー、俺そういうのよくわかんねえ」
帝統はケタケタと笑いながらどこまでも流されているのに、最後に残る信念は絶対に揺るがない。小舟に揺られてどんぶらこ、流れつく先はどこへやら。好奇心旺盛で楽しければそれでいい二人は馬が合うようで、先行きも不安には思わない。
……もうずっとこんな調子なのです。二人といると、怒っても呆れても笑っても泣いても今この一瞬が全てだということを、時々ふっと立ち止まって考える。未来の自分はどこまでわかっていて後悔をするのだろうかと、胸の奥、忘れられないくらい刻み込んで、突き刺さるまで深く沈めて、どこまで大事に愛おしむことができるだろうかと。全てを嘘にしてしまうにはもう後戻りできないところまで来てしまっていた。

いつもと違う夜が来て、いつの間にか部屋の電気は消えていた。乱数の一人で寝るには大きすぎるベッドで三人が眠るのはよくあることだったが、それも理由がわからないし、しかし毎回断るのも面倒だった。違う、本当は甘えていた、この二人に。この二人だから。
ベッドの真ん中に乱数、彼の左隣には帝統がいた。壁と乱数に挟まれながら瞼を閉じ、ただ静かに息をしていた。このところ寝付きが悪く、くまがあるとか肌の状態が悪いなどの理由からそういうことまで乱数は見抜いてくるから恐ろしい。
乱数はもぞもぞと寝返りを打って、こちら側に横向きになって無防備に手足を投げ出してくる。狭い、と追いやろうと思ったが、仰向きのまま顔を傾ければ、折り曲がった細い腕がすぐ横にあった。何もない夜も誰かとセックスをする夜も、彼からはこの匂いがする。丁寧にすくい上げ、手首をすうっと吸うと、やさしくて、切ない匂いがした。
「いい香り」
夜を連想させるやわらかいムスクと、控えめなベリーの甘酸っぱい香り。
「……おそろいにしてあげよっか」
起きていたとは思わなかったので動揺して、きっとその動揺にも便乗されるのだろう。わかっているのに、乱数は三日月のように細い目をして微笑んでいて、ちょうどカーテンの隙間から月明かりが差し込んで、その全ての曲線が美しくて、美しくて、声も出ない。ピンクの髪が透けて、空気に溶けていく。
乱数は手首を掴み、両方とも同じ箇所に香りが移るよう擦り込みながら、指先がエロティックに誘う。舌で舐められているような錯覚を受けながら、手を絡めたら押し倒された。見つめ合えば触れるだけのキスをして、襟足をかきあげ、耳元に顔をうずめながら首筋のあたりを合わせてきた。ふわふわの手入れされた髪が頬をくすぐる。猫のようなしなやかな動きに見惚れて、今自分たちが一体何をしているのか、頭で理解できないし言葉にもできない。体温が跳ね上がり頭がぼうっとする、あとなぜか少しだけ、胸が痛い。
「同じなはずなのに、違うね」
掴まれた手の、皮膚をすんすんと嗅いで、やり返したとばかりに笑う乱数のそんな表情ばかり覚えている。
以前、人は一つになれないの、なんでだろうねと聞かれたことを思い出す。答えをすでに持っているのに、それでも彼は一つになりたがる。
そんな彼の顔を、声を、匂いを、言葉を、与えられたものを、いつまで覚えていられるだろうか。終わりが来ても、ちゃんと笑って返せるだろうか。本当の顔で。


ここに一つの箱がある。中身を取り出してみた。黒色のガラスでできた、シンプルな六角形の香水瓶。あの部屋に飾られていたうちのひとつ。あの日、乱数に移してもらったムスクの香り。
雪が降りそうなほど寒い夜、手首に、首筋に、そっとつけてみる。もう後戻りはできない。もう随分前からできなくなっていた。毛布に包まると、彼に抱かれているような気持ちがした。それだけで何もいらないような気も、した。胃の中は今日もからっぽだ。


香水